剣豪として数々の戦いで大活躍した新選組・二番隊隊長の永倉新八はどんな人物だった?
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新選組・二番隊隊長であった永倉新八は、新選組解散後も生き残った数少ない新選組メンバーなんだ。
ここでは新選組離脱後の永倉新八についてまとめてみよう。
目次
【鳥羽伏見の戦いでは決死隊を率いた永倉新八】
鳥羽伏見の戦いでは、土方歳三が新選組の隊長代行となったため、永倉新八が副長代行を勤めることに。
新選組を含む旧幕府軍は伏見奉公所に集結。
一方、対する薩摩軍は御香宮神社に布陣したんだ。
薩摩軍の砲弾がふりそそぐ中で、永倉新八は「決死隊」と称して、島田魁らとともに薩摩の本陣へ向けて斬り込むの。
この決死隊は、甲冑を脱いで身軽となった状態で、抜刀して突撃するという戦い方で、勇猛な薩摩隼人をも驚かせる場面であったと言われているよ。
永倉新八が率いた決死隊だけが唯一、敵軍を突破できた部隊だったんだ。
しかしこうした奮闘もむなしく、薩摩軍の圧倒的な火力におされて、新選組は多数の死傷者を出し、大坂城へ撤退。
大将であるはずの将軍・徳川慶喜はひそかに大坂を脱出すると、家臣や兵卒も我先にと後を追い、永倉らも大坂から軍艦「順動丸」で江戸に帰還したんだ。
【近藤勇らと離れ、靖兵隊(靖共隊)を結成】
鳥羽伏見の戦いで敗れた永倉新八は江戸に戻ると、近藤勇らとともに甲陽鎮撫隊に参加。
新政府軍と甲州勝沼で戦うものの、それも敗れ、その後江戸に戻ると近藤勇らと決別、自らの道を貫くことになったんだ。
永倉新八は、松本良順から300両の軍資金を借りて、かつての剣術仲間であった旧旗本・芳賀宜道を誘い、靖兵隊(靖共隊)を結成したんだ。
この靖兵隊(靖共隊)には、永倉新八と同じく新選組を脱退した原田左之助、林信太郎、前野五郎、中条常八郎、松本喜三郎、矢田賢之助らも合流して、約100名にもなったそう。
靖兵隊は、北関東で新政府軍と対抗したものの戦局は不利で、米沢藩士・雲井龍雄の庇護を受け米沢藩に潜んでいたんだ。
そんな時に会津藩の降伏を知って、江戸に帰還。
12月には松前藩に自首し、明治2年2月に家老・下国東七郎の計らいで松前藩士(150石)として、帰参が認められたよ。
永倉新八の大叔母が、第12代松前藩藩主の妾で寵愛を受けていたことが、寛大な処置につながったと言われているんだ。
【数少ない新選組の生き残り】
新選組のメンバーの多くは、若くして亡くなっているけれど、永倉新八は数少ない新選組の生き残りとして生きていったんだ。
明治4年(1871年)には、家老・下国東七郎の仲介により、藩医・杉村介庵の娘であったきねと結婚し、婿養子としてなって一男一女をもうけたよ。
さらに明治6年(1873年)には、家督を継ぐと、杉村治備(のちに杉村義衛)と改名。
その後は北海道・小樽へ移住して、警察官僚・月形潔の招きを受けると、明治15年(1882年)から4年間は樺戸刑務所の剣術師範を務め、看守に剣術を指導したそう。
退職後は東京牛込にて剣術道場を開いているよ。
また永倉新八は、新選組の数少ない生き残りとして新選組の復権につとめたんだ。
明治9年には、新撰組に好意的だった徳川家茂の元侍医・松本良順とともに、近藤勇や土方歳三の墓を建立。
明治27年に、日清戦争が勃発すると55歳になった永倉新八は抜刀隊に志願。
しかし、お気持ちだけと断れているよ。
明治32年に妻と子供が小樽市内に薬局を開業したため、再び小樽に転居。
大正4年、虫歯を原因とする骨膜炎と敗血症を発症して、77歳で死去したよ。
【映画を好んだ晩年の永倉新八に関するエピソード】
永倉新八の晩年のエピソードとして、映画好きだったことが知られているよ。
晩年になり映画を好み、孫を連れてよく映画館に通ったそう。
「近藤勇や土方歳三は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた」と感慨していたそう。
ある時、映画館の出口で地元のヤクザに絡まれた永倉新八は、鋭い眼力と一喝で退去させたというエピソードも。
このエピソードには手技で勝った、杖を持っていてそれを構えた、道端の棒きれを拾って構えたという説もあるんだって。
また永倉新八は、孫たちが成人したら読ませるようにと、新選組時代の数々の戦いで負った傷の由来を「七ケ所手負場所顕ス」に書き残したんだ。
晩年は酒に酔うと、ふんどし一枚になって創を叩きながら、「お国のために働いた体だ。わしの誇りだ」と声を上げていたと言われているよ。