鬼の副長と呼ばれたイケメン・土方歳三の生涯とは? その1
2020年11月15日岩融 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2020年11月15日新選組の副長として大活躍した土方歳三。
前回は新選組を結成するまでを解説したよね。
今回は、新選組を結成してからの土方歳三の活躍をまとめてみるよ。
目次
【土方歳三が作った局中法度とは?】
新選組は敵より味方に粛清した数の方が多いと言われるほど厳しい組織だったの。
これほどまでに厳しかったのは、酒癖の悪いトラブルメーカーであった局長・芹沢鴨率いる水戸藩士一派がいたから。
行く先々で喧嘩などトラブルを起こす気の荒い集団だったため、厳しいルールを決めたんだ。
それが「局中法度」だったんだよ。
局中法度は以下のようなルールだったの。
一、士道ニ背キ間敷事
(武士道に背く行為は禁止)
一、局ヲ脱スルヲ不許
(新撰組からの脱退は禁止)
一、勝手ニ金策致不可
(無断で借金をすることは禁止)
一、勝手ニ訴訟取扱不可
(無断で訴訟に関係することは禁止)
一、私ノ闘争ヲ不許
(個人的な争いは禁止)
右条々相背候者切腹申付ベク候也
(以上いずれかに違反した者は、切腹を申し渡す)
背いてしまった者は切腹させられるため、粛清者は増えたよ。
また長州藩や薩摩藩などの倒幕派がスパイを送り込んでくることもあり、ルールの適用はさらに厳格化したそう。
土方歳三はこのルールを厳格に守っていて「鬼の副長」と呼ばれるようになったんだ。
【池田屋事件で後方指揮官として活躍】
池田屋事件では、圧倒的劣勢の状態で敵地に踏み込み、会津藩士が駆けつける前に征圧したことによって、新選組の驚異的な戦闘力があらわになったよね。
新選組=池田屋事件を思い浮かべる人は多いはず。
土方歳三は、当初池田屋に踏み込んではおらず、戦闘への参加は遅れているんだ。
後方指揮官として活躍したと言われているよ。
新選組は、近藤隊と土方隊で手分けして、独自に探索を開始していたんだ。
近藤隊が三条小橋にある旅館池田屋で集会を開いていた浪士たちを発見し、20名以上の浪士たちを相手にわずか4人で斬りこんだんだよ。
遅れて到着した土方隊は、すでに戦闘中だった近藤隊を助け、現場に駆け付けた会津藩・桑名藩の藩兵たちを牽制して、手柄を奪われないようにしたそう。
この土方歳三のマネージメント力のおかげもあって、新選組は京の町の守護神として、その名を一躍京都の町に響かせることになったんだ。
【鳥羽伏見の戦いで敗戦】
新選組の栄光は長くはなかったんだ。
新選組の後ろ盾となっていた幕府は、薩摩・長州を中心とした反幕府勢力に押されて徳川慶喜は大政奉還を行うことに。
徳川家を完全につぶして、新しい政治体制を構築した勝った、薩長側は徳川家の権力をはく奪する命令をしたんだ。
これに反発した旧幕府勢力と薩長を中心とした新政府軍が戦ったのが「鳥羽伏見の戦い」だよ。
この鳥羽伏見の戦いは京都の鳥羽・伏見で激突し、戊辰戦争の緒戦となったの。
土方は鳥羽伏見の戦いで、新選組を率いて奮闘するものの、薩摩藩の小銃隊の前に大敗してしまうんだ。
徳川慶喜が大坂城から江戸に帰ったことを聞きつけ、新選組も江戸に帰還することになったよ。
【敗戦後の土方歳三に「降伏」の文字はなし】
新選組は甲陽鎮撫隊と名前を変えて甲府に向かい、新政府軍と甲州勝沼で激突。
ただ、この際土方歳三は進軍の途中で、援軍要請のために江戸に舞い戻っているため、戦闘には参加しなかったんだ。
勝沼の戦いで新政府軍に惨敗した甲陽鎮撫隊は、隊員が散り散りになって江戸へ逃げ帰ったの。
この戦いで、新選組でともに戦ってきた倉新八と原田左之助も離隊。
さらに近藤勇が捕られてしまうんだ。
敵に包囲されたとき、近藤は自刃を覚悟したものの、それを止めたのは土方歳三だったんだよ。
「諦めずに最後まで生き抜いて戦おう」と出頭を促したと言われているの。
結局、近藤は板橋で斬首となってしまうんだ。
同士近藤を失ってしまった土方歳三だったけれど、侍スピリットは最後まで衰えてはいなかったの。
江戸城が開城となって、江戸が新政府軍の手に落ちると、歳三は江戸を脱出。
一路北へ向かって、宇都宮城で新政府軍と相対し、宇都宮城を陥落したんだ。
しかし、新政府軍の巻き返しにあい、戦闘中に足を負傷してしまうの。
その傷を治すために、会津に潜伏し、会津の町はずれにある東山温泉で療養したそう。
この際に、東山温泉にある天寧寺に近藤勇の墓を建立したと言われているんだよ。
【箱館戦争で討死】
戦列に復帰するものの、旧幕軍・新選組らは母成峠の戦いで敗れ、会津藩の防衛は困難に。
そこで土方はさらに北へ向かい、仙台へ行くことになったよ。
そこで旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出した榎本武揚と合流。
この同盟も次々に新政府軍に降伏して崩壊してしまうんだ。
土方は、榎本艦隊の人となり、慶応4年(1868年)10月に蝦夷地(北海道)へ上陸。
函館の城郭・五稜郭を落として、箱館、松前、江差を占領したんだよ。
12月には五稜郭を拠点とした蝦夷共和国が設立され、榎本武揚が総裁、土方歳三が陸軍奉公並という地位にもついたんだ。
この蝦夷共和国は江戸幕府が最後をとげるために北海道に開設した臨時政府だったんだけど、結局半年ほどしかもたなかったの。
明治2年(1869年)5月には、新政府軍によって箱館総攻撃が開始。
新選組の隊士であった島田魁らが駐屯していた弁天台場が包囲された知らせを聞いた土方は城を出て救援に向かうものの、馬上で敵の銃弾を受けて命を落としてしまうんだ。
35年の人生に幕を閉じたよ。
そして土方の死から1週間後には榎本が降伏して、箱館戦争は終わりを告げるんだ。
これによって江戸幕府の最後の残り火も完全に消滅したんだよ。
最後まで諦めずに武士として生きた土方歳三の生きざまを垣間見ることができるよね。
【土方歳三は美男子でモテモテだった?】
土方歳三は色白で引き締まった顔立ちをしていたそう。
また当時としては長身であったため、女性からはモテモテだったんだって。
ちなみに土方歳三の身長は当時の証言では「五尺五寸は確かにあった」とされているの。
五尺五寸は約167㎝になるよ。
新選組局長の近藤勇よりも高かったと言われているんだ。
芸者や舞妓から貰った恋文を、大量に箱に詰めて、郷里の友達に送り自慢したこともあったそう。
実際に残っている写真を見ても、現代人が見てもイケメンだと感じるよね。
イケメンで剣術にも優れて、リーダーシップも取れるなんてすごいなぁ。
未だに女性からの圧倒的な人気があるのもうなずけるね。
イケメンで女性からモテモテだったにも関わらず、土方歳三は結婚せず生涯独身だったんだ。