義兄・信長を裏切った浅井長政は義理人情に厚い知勇に優れた戦国武将だった
2020年11月15日鬼の副長と呼ばれたイケメン・土方歳三の生涯とは? その2
2020年11月15日新選組の副長である土方歳三は「鬼の副長」とも呼ばれていて、局長・近藤勇の右腕として活躍したよね。
「局中法度」という鉄の掟を作って、それを徹底的に貫いた鬼のように厳しい副長だった土方歳三についてまとめてみよう。
目次
【「バラガキ」と呼ばれた土方歳三の幼少期】
幕末悲劇にヒーローで現代女性にとって人気No1の志士と言っても過言ではない土方歳三。
土方歳三は天保6年(1835年)に武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)の家に10人兄弟の末っ子として生まれたよ。
局長である近藤勇よりも1歳年下になるんだ。
生家は「石田散薬」という家伝薬を副業とする旧家で、「お大尽」と呼ばれる裕福な家だったそう。
父も母も結核で亡くなったため、土方歳三は跡取りだった次兄・喜六とその妻・なかによって育てられたんだ。
幼少期に両親を失った土方歳三だけど、元気いっぱいに育ち、その当時のあだ名は「バラガキ」だったそう。
触ると傷ついてしまうトゲのように乱暴なイバラのように乱暴なガキという意味だよ。
土方歳三は幼少期から、大胆不敵で度胸あふれる少年だったことが良く分かるね。
風呂上りには太い大黒柱相手に相撲の張り手を1時間も続けていた…なんてエピソードも残っているんだよ。
さらに土方歳三は、近所で葬式があった際には、弔問客に履物を間違えずに出したという話も伝わっていて、武道だけではなく、手習いはしっかりと学んでいたことが良く分かるよね。
【行商として働きながら近藤勇と出会う】
土方歳三は11歳の頃、上野にある「いとう呉服店」へ奉公。
しかし番頭と喧嘩したことで、家に戻ってくることに。
家族がいくら説得しても、店には戻ることはなく17歳の時には大伝馬町に奉公。
奉公経験からか、土方は鋏や物差しを使うのがとても上手だったんだ。
その後、土方歳三は実家の石田散薬で行商として働くことになるよ。
実は、土方歳三の実家である石田散薬は昭和23年の薬事法改正まで250年間も続いていたの。
土方歳三は、販売だけではなく、原料材料の刈り取り指導なども行っていたとか。
この頃からリーダーシップに富んでいて、土方歳三が作業をすると早く終わると評判だったんだよ。
行商として働きながらも、土方歳三は剣の修行に励み、他流試合や道場破りなどを繰り返していたの。
その時に、同じ多摩出身の近藤勇と知り合い、25歳の時に天然理心流・試衛館に入門したんだ。
【天然理心流への入門】
実践剣術であった天然理心流・試衛館に入門したのは、土方歳三が25歳のこと。
年齢的には遅い入門で、この修行で近藤勇や沖田総司とも出会っているんだよ。
入門は遅かった土方歳三だけれど、以前から佐藤彦五郎の道場を出入りするなどしていたため、剣術にはなじんでいたんだ。
上達も速くて素質もあったそう。
特に土方歳三は、実践的な戦闘となると滅法強かったと言われていて、往来の気の強さや判断力もあったからか無類の強さとなったんだよ。
天然理心流は動乱の幕末においてもぶっちぎりで強かったと言われているんだ。
天然理心流は、寛政年間(1789年~1801年)に創設された新しい流派だったけれど、日野・八王子地域の千人同心を中心に広まったよ。
天然理心流には将軍家に尽くしたいという思いを持ったスポーツ剣術では物足りなさを感じている威勢のいい青年たちが集うようになったんだ。
【新選組の結成】
天然理心流で知り合った土方歳三と近藤勇は年も近く、同郷であったため、すぐに仲良くなったそう。
この騒然とした世に生まれた自分たちの進むべき道を語り合い、同じ夢を共有したと言われているんだ。
2人は「武士になって武士として生き、武士として死にたい」という夢を分かち合っていたんだよ。
嘉永6年(1853年)にペリー艦隊が来航し、鎖国が終わると、幕府の立場や影響力は日増しに落ちていったんだ。
市中の治安は悪化し、江戸期に安定していた封建的な秩序も崩壊されてしまうの。
そんな中、文久3年(1863年)に将軍の上洛に際する護衛の募集の知らせを聞きつけることに。
護衛として京へ向かうことになった、近藤勇、土方歳三たちだったけれど、浪士を率いていた清河八郎が「将軍の警護ではなく、尊皇攘夷の魁となるのだ」と言い出してしまうの。
浪士たちは江戸に戻るものの、納得できない近藤派、芹沢鴨一派は京都に残留。
京都の八木家にとどまったものの、幕府からの収入はなし、身分の保証もない状態で、「京都守護職」の松平容保を頼ることに。
文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変後、活躍が認められて新選組が発足したよ。
権力を握った近藤勇が局長となって、右腕として活躍した土方歳三は副長の地位について、京都の治安維持に当たったんだ。
新選組は副長助勤、監察など職務ごとに系統的な組織づくりがされていて、頂点は局長ではあったものの、実際の指揮・命令は副長の歳三から発したとされているよ。
次回は新選組を結成してからの土方歳三の活躍についてまとめてみるね。