明智光秀の妻・熙子ゆかりの妻木城とは?美濃焼の産地でも有名?!
2020年7月7日光秀のゆかりの地・岐阜県可児市にある明智城とは?!謎多き半生を遂げた光秀のルーツに迫ってみよう♪
2020年7月8日
「麒麟がくる」の主人公・明智光秀の主君であった斎藤道三。
斎藤道三が拠点を置いていたのが、現在の岐阜城である「稲葉山城」なんだ。
ここでは稲葉山城についてまとめてみよう。
目次
【現在の岐阜城である稲葉山城ってどんなお城だった?】
岐阜市のシンボルとして親しまれている金華山。
この金華山にあったのが、斎藤道三の拠点となる稲葉山城なんだ。
金華山は鎌倉時代から軍事拠点としての役割を持っていた土地で、稲葉山城は斎藤道三が大改修を行って、難攻不落の名城としたんだって。
山の麓には館が築かれ、道三の時代のものと言われている石垣も発見されているんだ。
稲葉山城があった城跡には現在、岐阜城が建てられているね。
この岐阜城は、織田信長が斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、あらたに造営したお城なんだよ。
はじまりは1201年、鎌倉時代に二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが最初と言われているの。
15世紀中頃には美濃守護代である斎藤利永が、稲葉山城を修復して居城としたんだ。
岩山の上にそびえる稲葉山城は、難攻不落の城としても有名だったの。
「美濃を制するものは天下を制す」と言われるほどだったんだよ。
【岐阜のまちづくりの基礎を築いた斎藤道三】
岐阜の街づくりの基礎を気づいたのは稲葉山城の城主であった斎藤道三だったと言われているんだ。
美濃国を治めた道三は、金華山山頂にある稲葉山城と山麓の居館を整備するため、山麓の丸山にあった伊奈波神社を現在の場所へ移転させたの。
さらに城下町の七曲通り(現在の本町周辺)には井口村の百姓に町屋を作らせて、百曲道(現在の上大久和町周辺)には大桑から町人を移住させて、新たな町を設けたんだ。
道三が始めた岐阜のまちづくりは、娘である帰蝶の夫で、後の岐阜城城主である織田信長へと引き継がれていったんだよ。
かつて「井ノ口」と呼ばれた一帯には、道三が築いた惣構の土塁や稲葉山城へつながる道など、当時の面影を見ることができるの。
また稲葉山城があったこの地は、尾張の織田信秀にたびたび攻め込まれて、何度も戦いの舞台となったんだ。
市内には犠牲となった織田軍を弔う塚がひっそりと残っているよ。
【織田信長と岐阜】
斎藤道三の後、稲葉山城の城主となった織田信長はこの地で様々なことを行ったんだ。
当時、「井ノ口」と呼ばれていた地を「岐阜」と改めたのも信長なんだよ。
「岐阜」という命名に関しては信長自らが命名したという説のほか、尾張の政秀寺の僧侶・沢彦宗恩が提案したという説もあるんだ。
また、商業を活性化させた「楽市楽座」や武士と農民を身分的に切り離した「兵農分離」の施工も岐阜で行われたの。
市場がある城下町に人を住まわせて、町を作り上げることに成功したんだよ。
さらに信長は、天下統一のために「天下布武」の印を使い始めるんだ。
4文字に願いを込めて天下統一を志したといわれているよ。
この「天下布武」という言葉は、「武力をもって天下を統一する」「天下に武を広める」という意味のほかに、「七徳の武を備えた者が天下を治める」という信長の平和な国づくりへの願いも込められているの。
軍事だけではなく、文化の力でも有力者をもてなすことで信長は仲間をどんどんと増やしていったんだ。