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2021年4月12日京都にある新撰組ゆかりのスポットを徹底解説 その1
2021年4月12日新撰組の隊服と言えば、浅葱色(薄い藍色や水色)のダンダラ羽織が有名だよね。
映画や小説、ドラマ、アニメなどでそのように表現されることが多く、新撰組=浅葱色のダンダラ羽織とイメージする人がほとんどだよ。
新撰組のトレードマークともなっている「浅葱色のダンダラ羽織」を、本当に隊士たちは着用していたのかな?
ここでは新撰組の浅葱色のダンダラ羽織の謎に迫ってみよう。
目次
【浅葱色のダンダラ羽織はいつ誕生したの?】
浅葱色のダンダラ羽織は新撰組が結成してすぐの分久3年4月頃に、新撰組副局長であった土方歳三が京都の大丸呉服店(現在の大丸松坂屋百貨店)に発注し作られたんだ。
麻の羽織で、この時作られたものが「浅葱色のダンダラ羽織」だったんだよ。
このダンダラ羽織は「忠臣蔵の赤穂浪士」の装束を真似してデザインされたものなんだ。
なぜ赤穂浪士の真似をしたか?というと、局長・近藤勇が赤穂浪士に憧れていたためとされているよ。
【浅葱色のダンダラ羽織は現存しない】
残念ながら、隊士たちが着ていたとされる浅葱色のダンダラ羽織に関しては、現存していないの。
なんと写真すら残っていないんだよ。
白いダンダラ(山形)が袖だけに入っていたという説、裾だけにダンダラが入っていた説、袖と裾の両方に入っていた説などがあり、詳細は分かっていないんだ。
その中で、近年最も有力視されている説は「ダンダラ模様は裾にはなく、袖だけにあった」という説だよ。
また新撰組のダンダラ羽織は浅葱色ではなく、浅黄色(薄い黄色)であったという考察もあるの。
【浅葱色のダンダラ羽織は新撰組隊士内からの評判は良くなかった?】
新撰組のトレードマークともされる浅葱色のダンダラ羽織が最期に目撃されたという記録が残っているのは「池田屋事件」なんだ。
浅葱色のダンダラ羽織が隊服となってから1年ほどで、終わってしまったことになるよね…。
実はこの浅葱色のダンダラ羽織に関しては、新撰組隊内からの評判が悪かったそう。
「素材が安っぽい」「派手で恥ずかしい」など嫌がる隊士が多く、徐々に着用する隊士へ減ってしまい、最終的には誰も着なくなったと言われているんだ。
当時、新撰組は資金的に余裕がなく、全員分の隊服を用意するとなるとお金がかかるため、上質な生地は買えなかったと考えられているの。
ちなみに池田屋事件で出動した隊士は、誰1人として着用していなかったとされているんだ。
池田屋事件の激闘を終えた後、大手柄を立てた新撰組出動隊が屯所に帰還する際に、屯所で留守番をしていた隊士たちが敬意を払って、浅葱色のダンダラ羽織を着て出迎えたと言われているよ。
屯所前で留守番組の隊士たちが浅葱色のダンダラ羽織を着ていたのを目撃されたのが、最後の記録として残っているの。
【浅葱色のダンダラ羽織が廃止された後の新撰組の隊服は黒装束だった?】
新撰組では、浅葱色のダンダラ羽織が廃止された後には、黒装束を着ていたとされているんだ。
新撰組二番隊組長・永倉新八の遺品にあった黒羅紗筒袖の陣羽織が新撰組の隊服・黒装束であったと言われていて、現在も北海道開拓記念館に所蔵されているよ。
また現存するものとしては、袖章もあるんだ。
土方歳三資料館には、函館五稜郭で新撰組が隊員を識別するために袖につけたとされる袖章が伝えられているの。
五稜郭には新撰組以外に、伝習隊や彰義隊などたくさんの小隊が参加していて、袖章がないと敵か味方かも判断するのが難しい状況であったそう。
この袖章を付けた隊員は80名ほどいて、現在でも土方歳三資料館の他に、函館市博物館や京都・霊山博物館などに23個が現存しているよ。
【新撰組伝説の隊服・浅葱色のダンダラ羽織を再現!】
浅葱色のダンダラ羽織は新撰組の隊服として、多くの人に知られているよね。
この浅葱色のダンダラ羽織は現存していないため、羽織を復元してみようという計画が2020年に行われたんだ。
プロデュースしたのは、大丸松坂屋百貨店。
新撰組の浅葱色のダンダラ羽織に関しては呉服店大丸に発注されたという史実があることから、大丸京都店が伝説の羽織の復元をすることになったの。
考証に基づき幕末当時の手法や素材を再現した結果、浅葱色のダンダラ羽織は麻の手織り、絹は国産の絹を使用。
当時は、化学染料がなかったので、天然の藍染で浅葱色に綺麗に染め上げられたよ。
復元された浅葱色のダンダラ羽織は、ドラマや映画で見るような明るいブルーとは違い、シックで落ち着いた青になったんだ。