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「麒麟がくる」第7話では、斎藤道三軍 VS 織田信秀軍の大柿城(大垣城)の戦いについて描かれているね。
今回は、大柿城の戦いに注目してみよう。
目次
【大柿城(大垣城)の戦いって?】
大柿城の戦いが起きたのは天文17年(1548年)のこと。
以前、織田信秀に奪われた西美濃にある大柿城(大垣城)を奪回するために、道三率いる斎藤軍が織田軍に進軍した戦いだよ。
この戦いでは攻防の末、織田軍は大柿城を守り切れず敗北。道三は大柿城の奪回に成功したんだ。
実はこの大柿城の戦いの際に、信秀の古渡城が同族の身内である織田彦五郎から攻められるという事態が発生。
織田一族が割れたことによって、織田軍の力が弱まり、信秀率いる織田軍は斎藤軍に敗北したと言われているんだ。
この大柿城の戦いによって、織田信秀は、駿河・遠江の今川義元、美濃の斎藤道三、一族の織田彦五郎という3つの敵に囲まれることになってしまうの。
【大垣城ではなく、大柿城?!】
現在は大垣城と表記しますが、江戸時代前は「大垣」ではなく、「大柿」と表記していたんだって。
大柿城(現在の大垣城)は、岐阜県大垣市にあった平城で、現在も外観修復された天守閣が残っているんだよ。
また、大柿城は関ケ原の戦いの際には、西軍の石田三成が本拠地としていたお城としても有名だよね。
大柿城の戦いの舞台となった、大柿城(大垣城)は、美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定にとって、天文4年(1535年)に創建されたお城なんだ。
その後、天文13年(1544年)に織田信秀によって落城したものの、大柿城の戦いによって斎藤道三の支配下になって、最終的には美濃に侵攻した織田信長が手中におさめたよ。
織田信長の死後、豊臣秀吉が美濃をおさめるようになると、池田恒興が城主となって、その後は次々と城主が入れ替わるんだ。
天正13年(1586年)には、天正自身によって城は全壊消失し、改築されたよ。
江戸時代には戸田家が代々城主となり、明治時代まで続くものの、、昭和20年(1945年)に戦災で焼失するものの、昭和34年に再建。
大柿城は、全国的にも珍しい4層4守の天守があり、大垣市のシンボルでもあるんだ。
戦災で焼失する前は、大垣城の天守は旧国宝にも指定されていたんだよ。
かつての大垣城は、水堀を幾重にめぐらせた堅城で、敷地は現在の3倍以上、櫓の数も10を超えている大規模な要塞だったの。
戦災で焼失しなければ、歴史的価値が非常に高いお城であったと言われているんだ。
【古渡城を攻めた、織田信秀の同族・織田彦五郎とは?】
麒麟がくる第7話に登場する織田彦五郎。
彼はどんな人物だったんだろう。
当初は優秀だった織田信秀は、同族の織田彦五郎に本拠地の1つである古渡城を攻撃され、大柿城を斎藤道三軍に奪還されてしまうんだ。
この織田彦五郎は、尾張下四郡の守護代清須織田家に生まれるよ。
織田彦五郎は織田達勝の後を継いで守護代になるものの、尾張下四郡の実質的支配者は清須織田家でなくなっていたんだ。
先代の織田達勝は、その当時上り調子だった信秀に協力するものの、信秀は加納口の戦い、小豆坂の戦いで相次いで敗北。
そこで、織田彦五郎は重臣・坂井大膳の進言に従って、信秀不在の古渡城を攻めたんだ。
古渡城を攻撃するものの、帰還した信秀はこれを防ぎ、戦いは一進一退の状態に。
信秀は平手政秀を交渉役として、翌年天文17年の秋に、織田彦五郎と和睦することになったよ。
しかし、その後信秀が亡くなり、信長が家督を継ぐと、彦五郎は信長の弟の織田信勝を支持し、信長に戦いを挑むことになるよ。
織田彦五郎は信長の敵としても知られているんだ。