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信長と帰蝶は政略結婚だった!当時は政略結婚が普通だったの?!武家の結婚事情を解説

 

「麒麟がくる」第8話では、信長の元へ嫁ぐことになった帰蝶と明智光秀のやりとりが描かれているね。

戦国時代には政略結婚がとても多くて、帰蝶と信長も政略結婚だったことは有名。
今回は、武家の政略結婚についてまとめてみよう。

 

【帰蝶はなぜ信長に嫁いだの?】

 

信長の父、織田信秀は今川義元の侵攻に備えるために、美濃の斎藤道三に和睦を申し出たんだ。
その和睦の証として、信秀の嫡男である信長と道三の娘である帰蝶が結婚することに。

つまり政略結婚ということになるね。
このような両家が身内となるための政略結婚は武家の間ではしばしば行われていたんだよ。

 

【武家は基本的に政略結婚だった?】

 

基本的に武家は政略結婚だったといわれているよ。
恋愛結婚する人はほとんどおらず、歴史的人物で恋愛結婚をしているのは豊臣秀吉とねねくらいなんだ。

 

娘を家臣や他の大名に嫁がせて、関係を深くするというのが当時の常識だったの。
相手をだまして、殺してが平気で行われていた時代だから、血のつながりというのはとても大切で、親戚関係になるということを重要視していたんだって。

また、政略結婚は、結婚に家と家を結びつけるのが第一目的だったんだけど、相手の家にスパイを送り込むという要素もあったと言われているよ。

足軽レモン
足軽レモン
「豊臣秀吉」と「ねね」の恋愛結婚は当時では珍しく、現代の私たちからすると微笑ましくなるよね!

 

【当時の結婚スタイルはどんなだったの?】

 

また室町時代から戦国時代にかけては、結婚スタイルが徐々に現代風になっていったと言われているの。
平安時代までは、婿が嫁の家の世話になる「婿入り婚」が一般的だったんだ。

源氏物語でも、光源氏が今日はどこの嫁の家に行こう~と言っているのをイメージすると分かりやすいね。
つまり今でいう「通い婚」スタイルだったんだ。

 

一方、室町時代になると、夫の家に妻が嫁いでくるスタイルが一般的になったよ。
これは、今と同じ「嫁入り婚」だよね。
このように結婚スタイルが変化したのは、土地とお金が関係しているんだ。

 

平安時代には地方から徴収したお金、ものはすべて地方から京都に届いていたの。
でも武家はそれぞれ地方に根付いているから、その土地から収入を得て、その土地を守らなければならずその場所から動くことができなかったんだ。
だから、婿が嫁のところに行くのではなく、奥さんを自分の家に呼び寄せるようになったというわけ。

ちなみに結婚に関する儀式も、室町時代に成立したといわれているよ。
三々九度や白無垢が始まったのも室町時代で、江戸時代には今と同じような結婚儀式になったといわれているんだ。

 

【政略結婚で結婚した夫婦の仲は悪かった?!】

 

政略結婚と聞くと、いやいや結婚させられたため、夫婦間に愛情はないのでは?とイメージしがちだよね。

でも、実際には政略結婚だからと言って夫婦の仲が悪かったということはないみたい。
ただ、当時は一夫多妻制だったから、どうしても他の奥さんや夫と喧嘩することはあったみたいだけど、恋愛感情がないという夫婦は少なかったそう。

 

一夫多妻制ではあったものの、側室を持たずに1人の奥さんを愛したという武将もたくさんいるよ。
例えば、有名なところで言うと、黒田官兵衛、直江兼続、宇喜多秀家などは側室を持たないで、奥さん1人だけを愛しぬいたって言われているよ。

毛利元就は大好きだった奥さんを失って、生きる希望をなくし、家臣に側室を持つことを薦められたくらい愛妻家だったんだ。
また、戦国時代には妻や子供が人質になるということはごく普通のことだったため、武家の妻はそのように人質になった際には自害する覚悟を持たされていたんだ。

政略結婚と聞くと、なんかかわいそうなイメージが強いけれど、当時はそれが普通であったため、特に珍しいことでもなかったんだね。

 

レモン姫
レモン姫
政略結婚と聞くと聞こえが悪いイメージだけどしっかり愛し合った武将もたくさんいたんだね♪
レモン姫
レモン姫
表向きは政略結婚でも、夫の武将が自害した際に一緒に追っていく妻もいたくらいだから一蓮托生で生き抜いたんだね。