茶湯の天下三宗匠のひとり、津田宗及(つだそうぎゅう)とは?どんな人で何をした人?
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2020年5月28日茶湯の天下三宗匠は千利休、津田宗及と、もう1人は今井宗久だよ。
今井宗久は、千利休と津田宗及と同じく堺の豪商で茶人だったんだ。
ここでは今井宗久についてまとめてみよう。
目次
【今井宗久ってどんな人物だった?】
今井宗久は戦国時代から安土桃山時代の堺の商人であり、茶人だよ。
千利休・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられたことでも有名だよね。
大和国出身の今井宗久は、泉州・堺に出て納屋宗次の居宅に身を寄せながら武野紹鴎に茶を学んだんだ。
やがて師匠である武野紹鴎の女婿となって、家財茶器などをことごとく譲り受けたと言われているよ。
後に、この遺産を巡って紹鷗の長男である武野宗瓦と争いになるものの、今井宗久が勝利したんだ。
【日本で初めての武器商人・今井宗久】
今井宗久は、初めは軍需品としての需要があった鹿皮などの皮革製品を商い、富を得ていたよ。
また、貸倉庫業や金融業も行っていて、屋号は「納屋」と言っていたんだ。
さらに今井宗久は薬屋宗久とも言われていたので、薬問屋も商っていたと言われているよ。
その後、今井宗久は火薬や鉄砲などの商いも初め、戦国大名とたくさん取引をしていたんだ。
日本で最初の武器商人とも言われる今井宗久は各地の戦国大名とのつながりを深めていったよ。
【信長に一番信頼されていた茶人だった?】
今井宗久は千利休、津田宗及の3人の中で、信長からの信頼を一番得ていたと言われているよ。
今井宗久の師匠であり義理父である紹鷗は53歳で急逝したため、娘婿の今井宗久が後継人となり、武野家の財産管理を任されたんだ。
天下を狙う織田信長が上洛すると、茶器の名品である「松島の茶壷」「紹鷗茄子(じょうおうなす)」を献上して、信長に取り入ったと言われているよ。
また、信長が堺の豪商たちに20000貫の戦費を要求した時には、会合衆たちは大反対したんだ。
しかし、宗久は会合衆たちを説得して信長との和解に努力し、成功。
この功績によって、宗久は信長からの信頼を得て、堺五箇庄の代官に任命されたよ。
【政商としてのし上がっていく今井宗久】
今井宗久は信長の庇護のもと、塩魚や干物を扱う商人組合である「塩合物座」の権利や、淀川通行船の関税免除、生野銀山の開発などの特権を得ることになるんだ。
政商としてのし上がっていく今井宗久は、鉄砲の大量生産、販売、南蛮貿易にも進出するようになるよ。
火薬の原料となる硝石や鉄砲玉の原料となる鉛の調達など、総合軍事産業の事業化として巨万の富を築き、信長の天下統一を側面から支えたんだ。
そして茶人としても千利休、津田宗及とともに信長の茶頭を務めたんだよ。
本能寺の変により信長が亡くなった後は、秀吉の時代になってからも当初は一番の信頼を受けていたそう。
しかし、徐々に茶の湯の世界は千利休が牽引するようになり、新興の薬種商・小西隆佐を重用したため、今井宗久は静かに主役の座を降りたんだ。
【現存する今井宗久の茶室】
戦国時代末期に、今井宗久が橿原市今井町の牧村家に建てた茶室は現存しているんだよ。
その茶室は「黄梅庵」と名付けられ、現在は堺市に寄贈されていて、昭和55年に大仙公園内に移築されているの。