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2020年5月29日
安土桃山時代にはたくさんの絵師が活躍していたけど、その中でも室町時代から江戸時代までの日本画壇の中心にあった画派「狩野派」の代表的画人である狩野永徳は有名だよね。
狩野永徳は日本美術史上、最も著名な絵師であったとも言えるよ。
ここでは狩野永徳についてまとめてみよう。
目次
【狩野永徳ってどんな人物だったの?】
狩野永徳は1543年に父・狩野松栄の長男として京都で生まれたんだ。
狩野永徳の家は、代々画家の一家で、室町時代から明治維新を迎えるまで約400年もの間、日本の絵画界の中心として活躍していたんだよ。
狩野永徳の祖父である狩野元信が、狩野派の基礎を築き上げたんだ。
幼い頃から狩野永徳の才能は開花されていて、繊細でありながら優雅で迫力のある絵を描き上げていたそう。
父親から狩野派のトップの座を譲られた狩野永徳は、若きリーダーとして日本美術界をリードしたんだ。
【織田信長や豊臣秀吉も惚れ込んだ狩野永徳の才能】
天下人であった織田信長や豊臣秀吉も、狩野永徳の実力に惚れ込んでいたんだよ。
信長が築城した安土城、秀吉が築いた大坂城と聚楽第の障壁画はすべて、狩野永徳が描いたものなんだ。
狩野永徳はそのほかにも、後陽成天皇の御所、公家の近衛前久邸の障壁画も手掛けているよ。
最期は、京都の東山にある東福寺の天井画を描いている時に、未完成のまま過労死してしまうんだ。
天下人に仕えていた狩野永徳の作品は雄大なスケールの豪快な作品が多いけれど、安土城や大坂城などはすべて滅びてしまっているため、現存作品は少ないの。
織田信長と狩野永徳の出会いはいつだったのかはっきりと分かっていなんだよ。
一説には、狩野永徳が描いた「洛中洛外図屏風」がきっかけだったと言われているの。
「洛中洛外図屏風」は狩野永徳が23歳の時に、将軍義輝から注文を受けて作り始めた屏風なんだ。
義輝は「洛中洛外図屏風」を越後の上杉謙信へ贈るつもりだったそう。
「洛中洛外図屏風」は京都の町の景観を上から見下ろすように描きだしている「二隻一双」からなる屏風なの。
祇園祭の山鉾巡行など、京都ならではの風俗や名所が描き込まれているよ。
この洛中洛外図には2500人近い人が描き込まれていて、圧巻の出来栄えだったんだ。
義輝本人は完成した屏風を見る前に亡くなってしまうんだけど、永徳が基本的な構図、配置を考え、その指示のもとで門人たちが実際の作業にあたったのでは?と言われているんだよ。
当時の狩野派のすべてが結集されていたといっても過言ではない洛中洛外図を見て、信長は狩野永徳を気に入ったと言われているの。
【狩野永徳の代表的な作品って何?】
狩野永徳の代表的な作品と言えば「唐獅子図屏風」だよ。
唐獅子図屏風は安土桃山文化を象徴する作品で、歴史の教科書には必ず登場するほど有名な作品なの。
唐獅子図屏風の大きさは、縦2.2m、横4.5mと大きく迫力があるよ。
中国では唐獅子は縁起物で、権力や実力を表す力強いシンボルだったんだ。
永徳が描いた唐獅子は、今にも絵から飛び出して来そうな躍動感が印象的だよね。
その中にある堂々とした気品も印象的なの。
これだけ有名な唐獅子図屏風なんだけど、現存しているのにも関わらず、実は国宝には指定されていたんだ。
唐獅子図屏風が国宝にならないのは、皇室の私有物となっていて、国宝の保護対象にならないからなの。
やまと絵を発展させ、室町時代後期から桃山・江戸時代の権力者の御用絵師となった狩野派。
日本美術の本流とも正統派とも称されている狩野派の真骨頂は、大画面構成の金地屏風にあると言われているよ。