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2020年5月23日
出雲阿国とは、安土桃山時代に活躍した女性芸能者だよ。
出雲阿国が踊っていた「かぶき踊り」が基になって、現在の「歌舞伎」が出来上がったと言われているんだ。
ここでは、出雲阿国はどんな人だったのか紹介していくね。
目次
【出雲阿国ってどんな人なの?】
出雲阿国は、出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘で、出雲大社の巫女をしていたんだ。
阿国が活躍した1570年頃は戦国時代で、人々が困窮した時代だったの。
そのため、参拝者も少なくて、出雲大社には社殿を修繕するお金もなかったんだ。
そこで社殿の修繕費を稼ぐために、旅に出て諸国を練り歩き、神楽舞を披露することでお金を稼いでいたんだよ。
文禄年間に出雲大社勧進のため、各地を踊りなが興業巡業していた時に、阿国の踊りが評判になったんだ。
【阿国のかぶき踊りとは?】
歌舞伎の創始者とも言われる出雲阿国は、歌舞伎の基礎ともなる「かぶき踊り」で有名になったんだよ。
元々、阿国は「ヤヤコ跳」という踊りを踊っていたんだ。
このヤヤコ跳は子供の遊びのような可愛らしい踊りだったんだけど、興業巡業を続けていくうちに人々が求めている踊りに変化していったと言われているよ。
こうして誕生したのが「かぶき踊り」だったの。
では「かぶき踊り」とはどのような踊りだったんだろう?
かぶき踊りは、名古屋山三役の男装をした阿国と、茶屋の娘役の女装をした阿国の夫が濃密に戯れるという内容だったんだ。
つまり、異性装をした踊りだったんだよ。
阿国と阿国の夫以外の、踊り手も異性装を売り物とし、それを観た観客は倒錯感に高揚したと言われているんだ。
かぶき踊りの最後は、出演者と観客が入り乱れて全員で踊っていたようで、熱狂ぶりが伝わってくるね。
かぶき踊りとそれまでの踊りの決定的な違いは、「セリフ付きの踊り」であったということ。
男装をした阿国のは、ひときわ目を引くド派手な格好の「歌舞伎者」を演じて、男女の恋沙汰話を面白くおかしく劇風にアレンジを加えたんだ。
ユニークさを最大限にアピールしたおどりだったんだよ。
さらにその当時ではタブーとされていた、女性が着物の裾をまくり上げ、大股を開いて生足をさらけ出すといった激しい踊りも取り込まれていたそう。
全国で人気を集めた阿国のかぶき踊りは、北野天満宮に舞台を張るほどの人気になったんだ。
京でも人気を集め、秀吉のいる伏見城に参上して踊ることもあったそう。
京都での人気が衰えた後は、江戸を含む諸国を巡業して芸を見せて歩いたと言われているんだよ。
【阿国のかぶき踊りが与えた影響とは?】
阿国のかぶき踊りは遊女屋で取り入れられ、遊女歌舞伎として広まっていったよ。
当時は、さまざまな土地の城下町に遊里が作られていたから、遊女歌舞伎は10年ほどで全国に広まったそう。
遊女歌舞伎では、男装した遊女と遊女の濃密な掛け合いに、三味線による囃子が追加されたよ。
この遊女歌舞伎は、お客にとって遊女の品定めの場となっていたんだ。
阿国一座による「かぶき踊り」は遊女屋で広まったんだけど、ある時から女人禁制となってしまうの。
江戸幕府は寛永6年(1629年)に、女性が芸能の舞台に立つことを禁止してしまったんだ。
この目的は、風紀の乱れを取り締まること以外にも、江戸時代以降に強くなっていた男尊女卑の傾向が関係していたの。
現在の歌舞伎の形に近づいたのは、元禄時代になってからと言われているんだ。
このころには、男性中心の演劇になっていて、広く民衆に親しまれていたそう。
現在の歌舞伎も、男性だけが舞台に立っているよね。
現在では、重要無形文化財として登録されていて、2005年にはユネスコで傑作宣言されて、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載されたんだよ!