光秀による丹波攻めの終盤戦「八上城の戦い」とは?一度裏切られた波多野氏に徹底的な籠城戦を行った?
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2021年2月9日
光秀は丹波攻めの終盤戦「八上城の戦い」で、母・於牧の方を人質に差し出して処刑されてしまったというエピソードがあるんだ。
そしてこのことがきっかけとなって、本能寺の変を起こしたのではないか?とも言われているの。
では本当に光秀の母は、はりつけの刑にされたのかな?
その真相について迫ってみよう。
目次
【光秀の母・於牧の方は人質として差し出された?】
軍記物「総見記(そうけんき)」や逸話集「常山紀談(じょうざんきだん)」には光秀の母である於牧の方が人質に出されたという逸話が書かれているんだ。
光秀は八上城城主である波多野秀治に和議を申し入れ、「信長に従えば本領と地位を安堵する」と約束したそう。
その約束の担保として人質に差し出したのが、光秀の母・於牧の方であったと言われているんだ。
波多野秀治は光秀の和議を信じて降伏し、安土へ送られるものの、信長によって三兄弟そろってはりつけの刑で処刑されてしまうの。
波多野氏の処刑を知った波多野秀治の家臣たちは、光秀との約束とは違うじゃないか!と激怒。
波多野三兄弟がはりつけされたのと同じように、人質であった光秀の母・於牧の方をはりつけにして殺害したんだ。
また「常山紀談」では光秀は人質に差し出していた母・於牧が処刑されることを考慮した上で波多野氏をだまし降伏させた…と記しているよ。
【本当に光秀の母・於牧は殺された?それとも創作?】
光秀の母・於牧がはりつけの刑によって処刑されたというエピソードに関しては、近年では創作であろうと考えられているの。
まず、八上城の戦いでの光秀による包囲網はとても強固なもので、波多野氏らは兵糧攻めに耐え切れずに降伏したんだ。
そのため、光秀がわざわざ母・於牧を人質に出してまですぐに降伏させる理由はなかったとされているよ。
かの有名な「信長公記」では、光秀の八上城攻めについて記録があるんだけど、その中に母・於牧についてのエピソードはないんだ。
また光秀が人質を差し出したという記録も残っていないんだよ。
このことからも光秀の母が人質に差し出されて処刑された…というのは創作であろうと考えるのが妥当なんだ。
【八上城とはどんなお城だった?】
八上城は丹波屈指の大規模な山城であったと言われているの。
標高462m、比高240mの高城山に建てられた八上城は、この地域の中心にあったことがよく分かるよ。
この高城山は別名「丹波富士」とも呼ばれており、地域の人々にとっては象徴的な存在であったんだ。
八上城は丹波、摂津の国境に連なる山並みを背後にして、北西側に篠山盆地を見下ろしていたよ。
また山裾には京都と丹波を結ぶ京街道が通る好立地の場所であったんだ。
現在は登山道も整備されていて、北側山麓の主膳屋敷址や曲輪、堀切などの城跡を見ることができるよ。
【陥落した八上城のその後は?】
波多野長治が開城した八上城は、明智光忠が入るものの、1582年に起きた本能寺の変の後には亀山城主となった羽柴秀勝の所領となるんだ。
さらに秀勝の配下となった並河飛騨守が八上城主となるよ。
その後、関ケ原の戦い後、前田玄以の子・前田茂勝が5万石にて八上城に入るんだ。
しかし慶長13年(1608年)に茂勝は改易され、かわりに入封した松平康重は篠山城を築城したため、八上城は廃城となるよ。