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鉄板で覆われた巨大戦艦で毛利水軍にリベンジを果たした「第二次木津川口の戦い」とは?

御船図(安宅丸)from wikipedia

 

前回は毛利水軍に大敗した「第一次木津川口の戦い」についてまとめたよね。

 

 

今回はその2年後に起こった織田軍が巨大戦艦で挑んだ「第二次木津川口の戦い」について解説していこう。

 

 

【巨大戦艦で挑んだ織田軍】

 

第一次木津川口の戦いに敗れた織田軍は、毛利軍の火矢や焙烙によって焼かれない船をつくるために2年の歳月を費やしたよ。
そうしてできたのが船体を鉄で覆った巨大戦艦だったんだ。

巨大戦艦が完成するとすぐに織田軍は、本願寺の補給路を遮断するために、大阪湾へ向かったよ。
淡輪沖を船行中、雑賀衆の船団が襲い掛かってきたんだ。
しかし巨大戦艦はその攻撃にびくともせず、大砲による攻撃で一網打尽にするほどの威力で雑賀衆船団を圧倒したよ。

雑賀衆船団は抵抗することができず、目の前を通り過ぎる巨大戦艦を見るしかなかったと言われているんだ。

天正6年(1578年)7月17日に巨大戦艦は堺港に到着、その翌日には大坂湾に到着し、要所に船を配備して大坂湾を封鎖したよ。
本願寺軍としては唯一の物資の補給路として残されていた大阪湾の海路を封鎖されたことを黙っておくことはできないよね。

天正6年(1578年)11月6日には、木津川口で毛利水軍と再び決戦が起こり、これを「第二次木津川口の戦い」と呼んでいるよ。
織田軍の巨大戦艦団に対して、本願寺軍は600隻の大船団で対抗したんだ。

 

御船図(安宅丸)from wikipedia

 

 

【巨大戦艦はどんな船だったの?】

 

人々が仰天したと言われる巨大戦艦(鉄甲船)はいったいどのような船だったんだろう?

「多聞院日記」によると「人数五千ばかり乗る。横へ七間(約12.7m)、縦へ十二、三間(23.6m)もこれあり。鉄の船なり。」と記されているんだ。

船体は3mmの鉄板で覆われていて、毛利水軍が得意とする火矢や火薬を詰め込んだ手投げ爆弾である「焙烙」が全く通用しない作りになっていたの。

宣教師オルガンティノは巨大戦艦を見て

「日本の船で最も大きく、華麗でポルトガルの船に良く似ている。これをどうやって建造したのか驚きである。これで石山本願寺は滅亡するものと思われる」

と書き残しているよ。

 

レモン姫
レモン姫
本当に当時にどうやって製造したんだろうね!改めてすごい技術だよね!

 

足軽レモン
足軽レモン
5000人も乗る軍艦なんだもんな〜!!

 

【織田軍の圧倒的勝利に終わる】

 

11月6日8時、大阪湾に600隻の大船団でやってきた毛利水軍に対して、信長水軍は6隻の巨大戦艦で待ち構えたよ。
毛利水軍は巨大戦艦の周りを包囲しながら、本願寺への補給路を確保するために南下。

小回りの利く小舟を使って自由自在に動きまわるものの、巨大戦艦は小舟の侵入を防ぐ巨大な壁のように立ちはだかったんだ。
そこで毛利水軍は巨大戦艦に近づき、得意技でもある炮烙で対抗。

 

一方、巨大戦艦には左右それぞれに3門の大砲が搭載されていて、6隻で合計36門の大砲があったんだ。

毛利水軍が近づき、船団を射的圏内に収めると、一斉に大砲は火を噴き、毛利水軍の小さな船体は木っ端微塵に吹き飛んでしまったよ。
大砲の攻撃を免れた船団は、最後まで炮烙や火矢を撃ち続けるものの、鉄板の巨大戦艦には全く歯が立たないよね。
毛利水軍の小舟は体当たりしてどんどん沈んでしまったんだ。

 

「信長公記」によると「大将の船とおぼしきものへ、大砲を打ち込み撃沈させ、以後、敵船は恐れをなして寄り付かなかった。九鬼嘉隆は、敵船数百隻を木津の河口へ追い込んで大砲で撃破した。」と綴られているよ。

 

8時から始まった第二次木津川口の戦いは、巨大戦艦で対抗した織田水軍の圧倒的勝利となり、午前中には終わったと言われているの。
毛利水軍との戦いに勝った織田軍は、豊臣秀吉による播磨・摂津攻略に専念できるようになったんだよ。

 

忍レモン
忍レモン
約3時間で決着がついた信長の圧倒的勝利だったんだね!
将軍レモン
将軍レモン
6隻の巨大軍艦に600隻がことごとく敗れたなり。。。
忍レモン
忍レモン
製造に2年を費やした価値はあったね!!