燭台切光忠 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年1月25日鉄板で覆われた巨大戦艦で毛利水軍にリベンジを果たした「第二次木津川口の戦い」とは?
2021年1月27日「麒麟がくる」にも重要な人物として登場している本願寺主導者である顕如。
天正4年(1576年)5月に信長との天王寺砦の戦いに敗れて、石山本願寺を信長軍に包囲されてしまったね。
しかし顕如はまだまだ諦めないんだ。
再び毛利輝元へ兵糧や武器などの援助を求めるんだ。
援助を求められた毛利輝元は、堂々と信長の正面から援助物資を木津川口から送り込むよ。
これを信長が黙って見過ごすわけがないよね。
ここでは信長水軍と織田水軍が、木津川口で合戦となった「第一次木津川口の戦い」についてまとめてみよう。
目次
【木津川口の戦いとはどこで起こった?】
木津川口というのは、現在の大阪湾にあたるんだ。
現在は埋め立てられているけれど、当時は海だったんだ。
【信長水軍300隻と毛利水軍800隻の戦いだった】
信長は石山本願寺の包囲はできていたものの、本願寺の補給路である海路を完全に封鎖できていなかったの。
天正4年(1576年)7月13日、毛利水軍、小早川水軍、村上水軍を合わせた毛利連合水軍は約800隻もの大船団で大阪湾に姿を現したよ。
村上水軍は海賊衆で無敵と言われるほど強敵だったんだ。
この大軍で本願寺へ武器や兵糧を運ぼうとしていたよ。
そこに、織田軍は対抗し、伊勢の九鬼嘉隆を総大将とする織田水軍約300隻で迎え打つことになったの。
7月15日に開戦となり、両者は海上で激突したよ。
数では劣勢となっていた信長水軍は苦戦を強いられたんだ。
毛利連合水軍は、「焙烙」と呼ばれる火薬を詰めた爆弾を織田軍に投げ込み、火を付けた矢を巧みに使いながら、信長の船団を焼き払ったんだ。
【陸戦も合わせて行われた木津川口の戦い】
木津川口の戦いは海上での戦いだけではなく、陸戦も繰り広げられていたんだ。
楼岸砦や穢田城から本願寺勢が出撃して、信長の住吉海岸砦を攻撃したの。
天王寺砦にいた佐久間信盛隊が毛利軍に出撃し激戦となるものの、長時間の戦いの末に佐久間隊は撤退することに…。
信長水軍も、船団の大部分が焼かれてしまって数多くの大将が討死してしまったよ。
海、陸ともに敗れてしまった織田軍は撤退を余儀なくされ、毛利水軍は本願寺へ大量の兵糧や武器、弾薬の補給に成功したんだ。
こうして織田軍と本願寺との戦いは、長期間続くことになるよ。
【毛利水軍の強さを思い知った織田軍】
織田信長は、この戦いによって毛利水軍の強さを改めて知ることになったんだ。
そこで信長は、総大将を務めた伊勢の九鬼嘉隆に、毛利軍に対抗する燃えない鉄製の船「巨大戦艦」の造船を命じたよ。
実際に巨大戦艦が完成するのは天正6年(1578年)6月のこと。
約2年の歳月がかかったんだ。
その姿は空前絶後の威容を誇っていたとされていて、船体を鉄で覆った巨大戦艦だったの。
巨大戦艦が完成すると織田軍はすぐに毛利軍との戦いに挑むことになるよ。
それが「第二次木津川口の戦い」なんだ。
次回は第二次木津川口の戦いについてまとめてみよう。