丹波の領民に君主として慕われていた?光秀が行った丹波統治とは?
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2021年1月21日
明智光秀は本能寺の変を起こした武将として知られているけれど、光秀は様々な功績を残した偉大な武将だったんだ。
その中でも丹波平定は光秀にとって大きな功績だよ。
ここでは光秀とのゆかりのある丹波国のスポットをまとめてみよう。
【丹波で活躍した光秀】
天正3年(1575年)から光秀は丹波平定に着手して、その後、亀山城、福知山城などを築いたよ。
光秀は丹波平定後、氾濫が多かった川の治水工事を行って氾濫を防いだり、地子銭と呼ばれた税金を免除したりと、善政をいくつも行っているの。
一般的には光秀は織田信長を討って三日天下に終わった謀反人というイメージが強いよね。
けれど治めていた丹波の土地では治世に長けており、領民からも広く慕われ、光秀を祀っている神社も建てられているんだ。
【光秀の丹波平定、丹波統治にゆかりのあるスポットをチェック】
丹波には現在でも光秀にゆかりのあるスポットが数多く残っているんだよ。
今回は光秀に関連するおすすめスポットをまとめてみよう。
<御霊神社>
京都府福知山市にある御霊神社は宇賀御霊大神を祀る時に、光秀公の御霊を合祀している神社なんだ。
光秀の丹波での功績をたたえて御霊会が開催されており、現在も毎年10月頃に御霊祭りが開催されているよ。
<鬼の架橋>
兵庫県丹波市にある鬼の架橋は、光秀が丹波攻略を行っている際に、八上城主・波多野秀治と黒井城主・赤井直正を分断するために築いた金山城跡にあるよ。
その頂上付近に、空を見透かすように横たわっている巨岩を「鬼の架橋」と呼んでいるんだ。
ちなみに鬼の架橋は標高540mの場所にあるので願望は抜群だよ。
<福知山城>
天正7年(1579年)に光秀が丹波の拠点として改修、築城したのが福知山城だよ。
明治時代初めに廃城令によって石垣と銅門番所以外はすべて取り壊されてしまったけれど、市民の瓦一枚運動などの熱意によって復元。
3層4階の天守閣が再現されたよ。
この福知山城は明智光秀が築城したお城の中で、現在唯一天守閣があるお城なんだ。
また北近畿エリア唯一の天守閣のあるお城だよ。
また福知山城にある石垣は光秀時代のものになるんだ。
元々は寺社などで使われていた石塔などが転用石として石垣に使われているよ。
その数は500以上にもなり、これだけのたくさんの転用石を間近で見られるのは全国でも福知山城だけなんだ。
<黒井城跡>
光秀を退去させ、丹波の赤鬼と呼ばれた赤井直正の居城であった黒井城。
現在は兵庫県丹市に黒井城跡として石垣が残っているよ。
丹波攻略は黒井城陥落のために5年もの歳月がかかったと言われているよ。
丹波平定後は、光秀の重臣である斎藤利三が城主となったんだ。
ちなみにこの黒井城は丹波三大山城の1つだよ(黒井城・八上城・八木城)
本丸をはじめとする山頂の曲輪群は堅固な石垣で囲まれていて、全山を要塞化しているよ。
黒井城跡は標高356mの猪の口山を中心に広がっているんだ。
ちなみに黒井城跡の登城路はゆるやかコースと急坂コースの2つがあるよ。
<八上城跡>
戦国時代に多紀郡一円を支配していた波多野氏が本拠としていた大規模な山城が「八上城」だよ。
この八上城は丹波富士とも呼ばれる高城山に築かれた山城なんだ。
城塞化された八上城は難攻不落な城として知られていたけれど、光秀はこの八上城を落城したよ。
現在は丹波篠山市に八上城跡として残っているよ。
登城口が整備されているので登りやすくなっているものの、天下の堅城なだけあって防衛力が非常に高いのが良く分かるよ。
<玉雲寺>
京丹波町にある玉雲寺は、光秀が丹波平定の際に、焼き討ちされたお寺なんだ。
玉雲寺には光秀の位牌や、文章も残っているよ。
丹波屈指の曹洞宗の禅寺である玉雲寺は明智光秀の軍勢により建物の大半を焼失してしまうんだけど、その翌年には光秀自身が再建したの。
明智光秀ゆかりのお寺としてファンに大人気なんだ。
<八木城跡>
南丹市にある八木城は、丹波守護代内藤氏の居城だった山城だよ。
黒井城・八上城と並んで丹波三大山城の1つと言われていて、1579年に光秀の丹波攻略の際に落城したの。
現在、八木城跡には石垣の一部と曲輪跡が残っているよ。
また八木城の最後の城主はキリシタン武将と呼ばれた内藤ジョアンであったと言われているんだ。
城山は標高330mで眺望は抜群。
晩秋から初冬にかけては、濃霧が発生する頃になると城山からの眺望は一転、あたりが幻想的な雲海の中に沈むよ。
<丹波亀山城跡>
亀岡市にある丹波亀山城跡は、1577年に光秀によって築城されたお城だよ。
亀山城は光秀の丹波攻略と平定の拠点となったお城でもあり、保津川と沼地を北に望む小高い丘に築かれたんだ。
光秀は近隣の村から人々を呼び寄せて城下町を形成。
天正8年(1580年)には丹波国を拝領し、光秀は本格的な城下町の整備と領国経営に着手したの。
亀山城は光秀の死後、羽柴秀俊によって修築され、慶長15年(1610年)に天下普請により近世城郭としての亀山城が完成したんだ。
この築城にあたっては、築城の名手と言われた藤堂高虎が縄張りを務め、五重の層塔型天守が造営されたよ。
この丹波亀山城は、明治維新の後、廃城令によって解体されてしまうものの、現在の所有者である宗教法人大本の手によって石垣などを修復されたの。
現在では、内堀跡や本丸付近の石垣を見学できるんだ。