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丹波攻略に5年もかかったのはなぜ?光秀が丹波攻略で苦しめられた相手とは?

黒井城の石碑 CC from wikipedia

前回は光秀の丹波平定の動きについてまとめたよね。

 

今回も丹波攻略をどのように行っていったのか?について詳しくまとめてみよう。

 

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【丹波攻略には強敵がたくさんいた?!】

 

丹波は立地的にも山に囲まれていて攻めにくい場所だったため、明智光秀は戦いに苦労したと言われているんだ。

さらに丹波の土豪たちは非常に手ごわく、強敵がたくさんいたの。
ここでは光秀が丹波攻略で苦しめられた相手についてまとめてみよう。

 

<丹波の赤鬼・赤井直正>

赤井直正は丹波の氷上郡を拠点としていた豪族で、丹波の赤鬼と呼ばれていたの。

 

黒井城の城主であった赤井直正は丹波の赤鬼以外にも、通称「悪右衛門」という呼び名があったんだ。

「悪」とつくだけになかなかの悪で知られていた赤井直正は、元々赤井氏の二男だったけど外叔父の荻野秋清の養子となって、この養父を殺して黒井城・城主になっているの。

 

一度は信長の元で所領安堵を受けるものの、親義昭派だったため信長とは敵対することに。
光秀が丹波攻略を始めたころ、竹田城にいた赤井直正は光秀の動向を知ると急いで黒井城に戻ってきて態勢を整え籠城。

 

光秀軍は、黒井城を包囲し、もう少しで光秀が勝利するというところまで赤井直正を追い込んだんだ。
しかし、そこで波多野秀治の裏切りにあってしまい、光秀は敗北し撤退することに。
最初の攻めは落城寸前まで追い詰めることができたものの、丹波の赤鬼は非常に強く、そこから先長い戦いが続くことになってしまうんだ。

 

光秀はその後、何度も赤井直正を攻撃するものの、逆に追い込まれる始末に。
結局、天正7年(1579年)9月、丹波攻めの最後の最後に黒井城を落城し勝利するよ。

ただ、実際は光秀が直正と戦って勝利したわけではなく、直正は平定前の天正6年3月に病死していたんだ。

 

直正の死によって赤井氏は力を失ってしまい、丹波攻略ができたと言っても過言ではないんだよ。
もしも直正が死んでいなかったら丹波攻略はもっと時間がかかった、もしくは攻略できていないかもしれないね。

 

足軽レモン
足軽レモン
丹波の赤鬼、凄い強そうだけど病気にはやはり勝てなかったですか。。。

波多野秀治の肖像。 PD from wikipedia

 

<裏切り者・波多野秀治>

光秀の丹波平定を苦しめたのが、波多野秀治の謀反だったんだ。

この波多野秀治は丹波八上城を本拠地としていて、丹波攻略当初は光秀の軍の一員として織田勢力に反発する土豪たちを討伐していたの。

けれど、赤井直正の黒井城がもう少しで落城するという時になって急に謀反を起こしたんだ。

 

表では光秀に対して忠実に働きながら、裏では土豪たちと通じていた波多野秀治。
赤井直正とも最初から結託していたのでは?と言われているんだよ。

 

第一次黒井城で攻め落とせず敗走した光秀は信長に大軍を与えられて丹波攻略を再開。
織田軍の軍勢と対峙してもなお、波多野秀治は耐えたよ。

 

波多野秀治の居城・八上城を陥落できたのも、丹波平定の最後の方なんだ。
天正7年(1579年)6月に兄弟で降伏することになって、安土城に送られるとはりつけの刑によって殺されるよ。

 

将軍レモン
将軍レモン
波多野秀治が裏切らなければもっと早く平定できてたのにな!

【丹波攻略を成功された光秀】

 

光秀は赤井氏の黒井城を攻略した翌日10月24日に丹波平定を主君・信長に報告したんだ。
5年近くもかかった戦いだったけれど、信長は家臣・光秀の労をねぎらってたいそう褒めたと言われているよ。

 

光秀が5年の間、丹波攻略だけではなく、別の戦に駆り出されて危ない目にあったり、過労で倒れたり、妻を亡くしたりと苦労をたくさんしていたことを信長も知っていたからこそ、労をねぎらって褒めたたえたんだろうね。

 

将軍レモン
将軍レモン
本当に大変な5年間でしたわ。

 

また丹波平定が一筋縄ではいかないことを信長自身も分かっていたと言われているよ。
赤井直正の強さは知られていたし、反対勢力の強い丹波平定を見事にやってのけた光秀の功績は非常に大きいものだったんだ。

丹波平定ができたことで毛利氏を攻めるための道も確保できたよ。

 

信長は光秀の功績を称えて、丹波一国29万石を与えたんだ。

光秀はそれまで坂本城を持っていたとはいえ近江の滋賀郡を所有している程度だったから、一国の拝領というのは非常に大きいものだったよ。

これによって光秀は、近江国坂本(5万石)と丹波一国(約29万石)を加算され、34万石を領する大大名となったんだ。

 

将軍レモン
将軍レモン
頑張った甲斐があって34万石の大大名になれたね!