光秀の重臣・斎藤利三は本能寺の変の計画を事前に知っていた?!利三が本能寺の黒幕だった説もあるって本当?
2021年1月10日丹波攻略に5年もかかったのはなぜ?光秀が丹波攻略で苦しめられた相手とは?
2021年1月10日
「麒麟がくる」第38回では明智光秀は織田信長から依然として敵対勢力が多い丹波を平定するように言われたよね。
ここでは天正3年(1575年)夏に始まった丹波攻略についてまとめてみよう。
目次
【丹波を平定するまでに5年近くの年月がかかった】
明智光秀のゆかりの地といえば、真っ先に思い浮かぶのは近江の坂本だよね。
光秀の居城でもある坂本城もあるので近江は光秀にとってゆかりの地といえるよ。
しかし光秀のゆかりの地として忘れてはいけないのが「丹波」だよ。
大変な苦労をして手に入れた領国こそが丹波なんだ。
信長の命令によって光秀は丹波を平定したんだけど丹波攻略は非常に大変なものだったの。
攻略しはじめてから平定するまでになんと5年近くの年月がかかっているんだよ。
元亀2年(1571年)に近江坂本城を築城し、城主となった光秀だったけれど、ずっと坂本にいられたわけではないんだ。
それ以降も丹波平定など様々な戦に駆り出されていたため、ゆっくりと腰を据える暇もなかったのでは?と言われているよ。
ちなみに光秀が丹波攻略を行っている際、ライバルであった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)も織田信長から毛利氏が一大勢力を築いている中国地方を攻めるように命じられていたんだ。
丹波一国と中国地方一帯では、大きさの規模が違う…と考えてしまうかもしれないけれど、丹波攻略こそが信長の毛利攻めのために欠かさないポイントとなっていたんだよ。
丹波の地を平定した明智光秀は、その地では「主君である信長を討ち取った逆臣」というイメージではなく、「善政を敷いた名君」であったと伝わっているの。
【なぜ丹波の攻略が必要だったの?丹波国ってどこら辺?】
丹波国とは現在の京都府、兵庫県にまたがる地域のことなんだ。
京都府の福知山市、綾部市、亀岡市、南丹市、京丹波市と、兵庫県の丹波市、篠山市あたりのエリアを言うよ。
この丹波国は海に面していない内陸部であり、この土地は光秀が拠点としていた近江・坂本からも近く、この丹波を平定すれば近江の東に位置する岐阜からも西へ攻めやすくなるという地域だったんだ。
岐阜といえば織田信長の本拠地だよね。
丹波国はその当時、室町幕府将軍・足利義昭に味方するものばかりだったの。
つまり、信長にとっては敵対関係にあった義昭派のエリアだったから反対勢力がたくさんいたんだ。
丹波攻略が始まったのは天正3年(1575年)夏頃のことで、信長が光秀に丹波を平定するように命令したのは、今後避けては通れない「毛利攻め」つまり中国地方を攻めるための準備だったんだよ。
信長は毛利氏を攻め落とすためにはまずは山陰を手中に収める必要があると考えたの。
そのためにはまずは丹波国を平定することが重要であるとみたんだ。
【光秀は5年もの間、丹波攻略にかかりきりだったわけではない】
丹波攻略は5年もの間続いたため、様々な戦、出来事があったよ。
ざっくり言うと、丹波氷上郡黒井城攻めで始まり、黒井城で終わるんだ。
丹波攻略は5年間も続いたんだけど、光秀はその間丹波一国の平定だけに取り組んでいるわけではないよ。
一度謀反のために敗走するなど撤退している時期もあったり、他の戦に駆り出されたりしたこともあったんだ。
丹波攻略が始まった翌年、天正4年(1576年)には石山本願寺攻めがあり、光秀はその際には天王寺砦で危ない目にも遭って、忙しさから倒れたことも…。
またその年には最愛の妻・煕子を病気で亡くしており、丹波攻略どころではないあわただしい日々が続いていたよ。
また天正6年(1578年)には信長に仕えていた家臣・荒木村重の謀反が起こり、その直前の離反の動きに際して相談にのるなど、様々な場面で光秀は活躍しているの。
過労で倒れながらも丹波平定をやってのけた光秀の才能は秀でるものがあるよね。
次回は丹波攻略の後半を解説しよう。
丹波攻略はどうやって行ったのか、攻略後の光秀についてもまとめてみるね。