比叡山・延暦寺のトップである覚恕はどんな人物だった?比叡山の焼き討ちはなぜ起きた?
2020年11月30日比叡山の焼き討ちの舞台となった比叡山・延暦寺はどんなところ?焼き討ちは1度ならず3度もあった?
2020年11月30日
「麒麟がくる」第33回、34回では比叡山の焼き討ちについて描かれているよね。
明智光秀は比叡山の焼き討ちで大きな功績を残したと言われているんだ。
ここでは、比叡山の焼き討ちについてと、光秀がどうかか分かったのかについてまとめてみよう。
目次
【本当は焼き討ちしていない?人骨が発見されていない謎!】
比叡山の焼き討ちでは、あらゆる建物を焼き討ち、逆らう僧侶だけではなく女性や子供なども関係なく何千人もの首をはねて、最終的に火を放ったという言い伝えが多いよね。
けれど最近の調査結果では、焼き討ちをしたとしたら当然出てくる焼け燃えた木材はわずかしか見つかっていないことが分かったんだ。
さらに、何千人も殺したと言われているのに、人骨も出土しなかったの。
本当に比叡山全土を焼き討ちしていて、何千人も殺していたら、もっと木材や人骨などが出土するはずだよね…
この結果から考えると、信長や光秀たちは、延暦寺を攻めて僧兵と戦ったのは事実であっても、巷で言われているような大量に人を殺したり、全山を焼き討ちしたりはしていないのでは?とも考えられているんだ。
【比叡山の焼き討ちは宗教弾圧ではない!】
比叡山の焼き討ちでは、多くの仏教僧侶が命を落としているよね。
そのため、宗教弾圧のために行われたのでは?と勘違いされることが多いんだけど実はそうではないんだ。
比叡山の焼き討ちの後、軍事拠点としての延暦寺は滅亡するものの、宗教としての延暦寺は残っているの。
このことからも、信長は天台宗という宗教そのものの存在は認めていて、信長が破壊したかったのは宗教そのものではなくて宗教という名の軍事勢力であったことがよく分かるよね。
その当時、宗教が勢力になることで、宗教そのものが腐敗してしまうことが多かったそう。
延暦寺も金融業をやっていて、サラ金のように年利50%以上の悪徳商法をしていたんだ。
【明智光秀は比叡山の焼き討ちでどんな活躍をしたの?】
明智光秀は信長の比叡山焼き討ちの中心実行部隊として大きな功績をあげたと言われているんだ。
比叡山焼き討ちを密に計画していた信長は、宇佐山城に光秀を入れたの。
光秀から比叡山焼き討ち準備完了の報告を受けた信長は、近江一向宗の金ヶ森城を攻略後に石山本願寺へ向かうと見せかけて比叡山を包囲。
元亀2年(1571年)9月12日に全軍に焼き討ちを命じたんだ。
光秀は比叡山焼き討ちの功労者として、比叡山延暦寺の遺領を信長から与えられたんだよ。
さらに織田家臣の中で初めて居城の築城も許されたんだ。
比叡山のふもとの地である坂本を含める滋賀郡約5万石が与えられ、光秀は坂本城を築城したんだ。
光秀は、坂本城を築城し、地域の復興に尽力を注いだそう。
そこで、光秀は坂本城主として経典や高僧を「独断で助けた」とも伝えられていて、比叡山延暦寺を手厚く保護したという話もあるんだよ。
【光秀は積極的に延暦寺攻撃を支持していた?】
これまで光秀は伝統的な権威を重んじる保守派なため、延暦寺攻撃に関しては否定的だったのでは?という見方がされていたんだ。
教養人の明智光秀は「平安時代より王城鎮護を担う延暦寺を焼くなど、もってのほか」と信長をいさめたということになっているの。
しかし、最近の研究では、光秀は積極的に延暦寺攻撃を支持していたからこそ、功績をあげたのではという考えになってきているよ。
焼き討ちの数日前に光秀は「仰木(ここでは比叡山)の事は、是非ともなでぎり(皆殺し)に仕るべく候」という手紙を書いているの。
この手紙の内容からも、光秀が張り切って比叡山の焼き討ちを行ったのでは?と考えられるよね。