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2020年11月30日
「麒麟がくる」第33回では比叡山延暦寺と織田包囲網について描かれていたね。 ここでは比叡山延暦寺のトップである覚恕についてまとめてみよう。
目次
【覚恕とはどんな人物だった?】
春風亭小朝さん演じる覚恕は、朝倉義景が頼る延暦寺の天台座主で、正親町天皇の異母弟にあたるんだ。
一般的には「覚恕法親王」と呼ばれているの。
小さい頃から兄に対してコンプレックスを抱いていた覚恕は、天台座主として金と権力で兄に対抗しようとするよ。
そして、覚恕は朝倉・浅井連合軍を比叡山にかくまったことで、信長によって焼き討ちに遭ってしまうんだ。
覚恕は戦国時代の1521年に生まれたよ。
父は後奈良天皇で、母は壬生雅久の娘・伊予局となり、第三皇子にあたるんだ。
母の身分が低く、兄がいたので、覚恕は4歳の時に僧となって、延暦寺において得度したの。
6歳のころには、延暦寺曼殊院(まんしゅいん)門跡を相続し曼殊院覚恕法親王となったんだよ。
この曼殊院は、古今和歌集や源氏物語、池坊専好立花図など多くの文芸書籍が伝世しているんだ。
覚恕は和歌や連歌を好んでいて、常に禁中の御会などに出席していたそう。
また尊鎮流の書もたしなんでいたんだよ。
【延暦寺・天台座主となった覚恕】
元亀元年(1570年)に覚恕は、比叡山延暦寺の166世・天台座主となるよ。
ちなみに延暦寺という建物はないんだけど、比叡山にある全部の寺院の総称を「延暦寺」と呼んでいるんだ。
この時、甲斐の武田信玄からはそのお祝いの品として「猿図」が贈られたんだ。
この「猿図」は現在、国の重要文化財になっているよね。
戦国時代、延暦寺があった比叡山には数多くの坊舎があったそう。
そこで僧侶は妻子らと暮らしていたんだ。
僧侶たちは自らの権力を守るために、武装化していてその数は数万もいたそう。
僧侶は大大名並みの軍事力を持っていたんだよ。
【浅井・朝倉連合軍をかくまった覚恕】
覚恕は延暦寺の天台座主になった翌年、蜂起した三好三人衆軍と石山本願寺と織田信長は、野田城や福島城の戦いを起こすよ。
その最中に、朝倉義景と浅井長政の3万の大軍は、織田信長の背後を攻撃するために琵琶湖の西岸を南下したんだ。
織田勢は、近江・宇佐山城にて防衛し、落城を免れるよ。
そして織田信長が宇佐山城に入ったため、浅井・朝倉連合軍は、比叡山にいる覚恕に支援を頼んで、比叡山や壺笠山城などを籠ったんだ。
その結果2ヶ月ほど膠着状態が続いたんだよ。
【比叡山の焼き討ち】
織田信長は、敵対する敵対勢力に勝利するためには、まずは比叡山を攻略する必要があると考えたんだ。
そこで元亀2年(1571年)に比叡山の焼き討ちを行うことに。
織田信長の軍勢が延暦寺を攻めてきた背景は、その前年に信長と敵対する浅井・朝倉軍の軍勢が比叡山へ立てこもって戦おうとしたからだよ。
信長は、浅井・朝倉を庇ったことを敵対勢力への肩入れをしたとみなし激怒。
延暦寺に対して「せめて中立を保たねば焼き払うぞ」と威嚇したものの、延暦寺はこれに対して何の反応も示さなかったんだ。
そこで、信長は比叡山の焼き討ちを決意したと言われているよ。
この比叡山の焼き討ちでは、信長軍勢は比叡山全土を焼き払って、僧侶も、それ以外も3,000人殺したと伝えられているんだ。
仏教の聖地であった比叡山に押し入って残虐な振る舞いを行ったことは、信長が残忍な武将として語り継がれることの重要なエピソードとなったんだよ。
ただ、最近では延暦寺側が宗教的以上に政治的な存在になっていて、信長として戦わざるを得なかったとも言われているんだ。
また僧侶たちは大きく堕落していて、世俗化していたともいわれているよ。
この比叡山焼き討ちの際、天台座主・覚恕本人は、直前に上京していたため、難を逃れたんだよ。
その後、覚恕は延暦寺衆徒の頼みを受けて、武田信玄に延暦寺の復興を申し入れるものの実現しなかったんだ。
信長は比叡山の焼き討ちで戦功があった明智光秀に、坂本城を築かせて、比叡山の監視をさせたんだよ。
覚恕は、比叡山の焼き討ちから3年後には亡くなってしまうんだ。