明智光秀はなぜ本能寺の変で織田信長を討ち殺したの?!暴君討伐説・怨恨説が最有力視されている?!
2020年9月12日明智光秀はなぜ本能寺の変で織田信長を討ち殺したの?!光秀に謀反させた黒幕の存在があった?!
2020年9月15日
明智光秀が起こした本能寺の変に関しては、その理由が諸説語り継がれているよ。
前回は、最も有力視されている暴君討伐説・怨恨説についてまとめてみたけど、今回は光秀の野望説について考えてみよう。
野望説とは、いったいどんな理由だったんだろう?!
目次
【江戸時代~戦前までは怨恨説が有望!戦後の研究では野望説が浮上してきた?!】
テレビドラマや映画などで本能寺の変が描かれる場合、怨恨説や暴君討伐説で登場することが多いんだよね。
そのため、多くの人は信長に恨みをもっていたから、光秀は主君を討ち殺したんだ…と考えている人が多いはず。
この暴君討伐説・怨恨説に関しては、江戸時代から戦前まで広く語り継がれていたの。
しかし、実は信長が行ったとされるひどい仕打ちに関して記されている史料は、そのほとんどすべてが構成の編纂物で光秀が実際に生きた当時の史料からは確認できないんだ。
今と同じように、江戸時代の芝居や読み物も、読者や客の関心を引くために、脚色した俗説が流布しやすい環境だったの。
その俗説が、ドラマなどで現在でも描かれいるから、僕たちもそれを疑わずに事実だと受け止めてしまっているんだよね。
戦後にそれまでの説とは一遍して登場してきたのが「野望説」だよ。
光秀が本能寺の変を行った動機は、怨恨ではなく野望であったと言ったのは歴史学者の高柳光寿なんだ。
高柳光寿の著書「明智光秀」(1958年)によると、確かな史料に基づいて従来の怨恨説を否定。
光秀は天下を狙ったという結論づけたもので、本格的な光秀研究の端緒になったとも言われているんだよ。
【光秀野望説って?!】
本能寺の変が起きる前、織田信長は京を含めた近畿地方のほぼすべてを手中に収めていたんだよ。
さらに近畿地方以外にも東は甲斐地方、北は越中地方、南は紀伊地方、西は備中地方と勢力を拡大していたの。
その当時、織田信長は最も天下人に近い人物として誰しもが知る存在だったんだよ。
天下人に最も近い人物であろう織田信長を倒せば、信長が収めた領土はすべて自分のものにでき、自分が天下人になれる!と考え、本能寺の変を起こしたのが光秀の「野望説」なんだよ。
この野望説では、光秀自身に天下人への憧れが強くあった、室町幕府を復興したいという思いが強かった…などと言われているの。
現在では、暴君討伐説・怨恨説と並んで通説に近いものとされているんだよ。
【本能寺の変の数日前に愛宕百韻で詠んだ連歌に野望説の根拠がある?】
野望説がささやかれるようになったのには、もちろん根拠があるんだよ。
その根拠として有名なのが愛宕百韻(愛宕連歌会)で詠まれた光秀の歌なんだ。
愛宕百韻は本能寺の変の数日前に行われたと言われていて、光秀はその時にこのような歌を詠んだそう。
「ときは今 あめが下知る 五月かな」
この歌を今の言葉に言い換えてみると
・とき=土岐氏=光秀の出身
・あめ=天=天下
・下知る=命令
という意味になるから、「土岐氏のわたし(光秀自身)が今、天下に命令するからね!」と訳すことができるんだ。
つまり、本能寺の変が起こる前に、自分が天下人になる!ということを暗に詠っていたのでは?と言われているよ。
根拠となっている愛宕百韻に関しては軍事物「惟任退治記」に記されているよ。
実はこの惟任退治記を書いた作者は豊臣秀吉の側近だったため、その信憑性は高くないと言われているんだ。
史料的価値としては疑問視されることもあるので、本当かどうかは定かではないね…
愛宕百韻の原文に関しても、改ざんされたのでは?と疑わるほどなんだ。
実際のところ分からないけれど、野望説という原因も100%ないとは言い切れないよね。