明智光秀はなぜ本能寺の変で織田信長を討ち殺したの?!その理由はある1人の女性が関係する?!
2020年9月12日明智光秀はなぜ本能寺の変で織田信長を討ち殺したの?!光秀は天下人を狙っていた野望説は本当?!
2020年9月12日
明智光秀が、主君である織田信長を討ちとった「本能寺の変」が起こった原因は諸説あるんだけど、その中でも1番有力視されているのが「暴君討伐説」だよ。
ここでは、光秀が本能寺の変を行った理由についてまとめてみよう。
目次
【本能寺の変が起こった原因、50説から選ぶ総選挙の結果とは?】
京都市福知山市では、「本能寺の変」の原因を50説から選ぶ総選挙を行ったんだ。
その投票結果で、堂々の1位に輝いたのが、明智光秀が主君・織田信長の非道を許せず正義のために討った「暴君討伐説」だったんだよ。
戦国最大の謎と言われているけれど、多くの人は織田信長の明智光秀に対するパワハラが原因だったのでは?と感じていることがよく分かるね。
【暴君討伐説、怨恨説とは?】
古くから言われている説として、暴君討伐説、怨恨説があるよ。
光秀は主君である信長のことを恨んでいたため、討ち殺したとされているんだ。
映画や、テレビドラマなんかでも、信長の光秀に対する暴君、パワハラが描かれていることはとても多いの。
信長の機嫌を損ねた光秀が打擲されてしまったり、足蹴にされてしまったりする場面を見たことがあるという人も多いはず。
また、光秀が自分の母親を人質にして敵を降伏させたところ、信長が約束を破って敵の大将を殺したため、母親も敵方に殺されてしまったという話も有名だね。
さらに、安土城を訪れた徳川家康の接待に対して手抜かりがあったからといって、信長に満座の中でせっかんされたという話もあるんだよ。
これらの非道ともいえる信長の仕打ちを恨んだ光秀が謀反を起こしたのでは?と江戸時代頃から語り継がれていたそう。
光秀は本能寺の変を起こした後、当日もしくは翌日に書いた書状に「信長父子の悪虐(あくぎゃく)は天下の妨(さまた)げ、討ち果たし候(そうろう)」と記しているんだ。
この言葉からも信長とその後継者・信忠に対して、何か強い憤りを感じていたことが良く分かるよ。
もちろん、自分が起こしてしまったことを正当化するための後付けの文言とも取れるけれど、この文章からは信長を討ったことで目的を果たしたような印象さえ受けてしまうよね。
本能寺の変の後、組下大名であった細川藤孝や筒井順慶らは光秀の味方にはならなかったんだ。
きちんと根回しさえしていれば味方になってくれたのかもしれないのに、そのような根回しもなかったことがうかがえるよね。
光秀は突発的に本能寺の変を起こしてしまった…という可能性も高いと思うよ。
【本能寺の変が起こる半年~1年前には信長に感謝の気持ちを綴っていた?!】
日本史上最大のミステリーとなっている本能寺の変だけど、信長に対して積もりに積もったうっぷんを爆発させたことが原因という「暴君討伐説」「怨恨説」が有力視されているよね。
けれど、本能寺の変が起こる1年前には、光秀は信長に対して感謝の気持ちを綴っているんだよ。
御霊神社には光秀が定めたとされる「家中軍法」が伝わっているんだけど、その軍法にはこう綴られているんだ。
「水に沈む瓦礫のように落ちぶれた身分であった私を召し抱え、たくさんの軍勢を預けられた。粉骨して忠節に励めば、主君にも伝わるだろう」
この文章から光秀が信長へ恩義を感じていることがうかがえるよね。
また、光秀は本能寺の変が起こる半年前の茶会の関では、信長自筆の書を掲げているんだ。
その姿勢を見ても、本能寺の直前までは、2人の関係が良好だったことが分かるよね。
これらのことが起こったのが、本能寺の変が起こる直前だったことから、わずか1年の間で2人の関係に亀裂が入ったのかな…。
光秀の心が、主君を殺すという想いに至るまで、どのように変化していったのか、今では誰にも分らないけれど、本当に不思議だよね。