茶の湯を大成した茶人で「茶聖」とも称せられる千利休とは? – 利休の辞世の句は?
2020年5月27日茶湯の天下三宗匠のひとり、今井宗久(いまいそうきゅう)とは?どんな人で何をした人?
2020年5月27日
津田宗及は安土桃山時代の大阪堺の商人であり、茶人だったんだ。
茶湯の天下三宗匠の1人である津田宗及はどんな人物だったのかな?
ここでは津田宗及についてまとめてみよう。
目次
【津田宗及とは?】
津田宗及は名は助五郎、号は天信というよ。
堺南荘の豪商・天王寺屋の津田宗達の子として生まれた津田宗及は、茶人・武野紹鴎の門人だった父から茶道を教わったんだ。
堺の大小路に居所を構える天王寺屋は堺でも有力な商人として知られていたよ。
はじめ石山本願寺と通じていた津田宗及だけど、織田信長が畿内に勢力を伸ばすと、信長に接近。
その後、信長の茶頭を務めたんだよ。
信長が本能寺の変で亡くなった後は豊臣秀吉の茶頭となって、1587年に北野天満宮で秀吉が開催した「北野大茶会」にも重要な役割を果たしたんだ。
【信長と秀吉から信頼を得ていた津田宗及】
津田宗及は織田信長と豊臣秀吉から信頼を得ていた商人・茶人だったんだ。
元亀3年(1572年)には信長が主催した京都妙覚寺での茶会に参加して接待を受け、翌年2月には岐阜城で信長の名器の拝見を許されるまでになったんだよ。
信長が堺に来た時には、津田宗及の家に泊まったと言われており、重用されたんだ。
さらに、信長は津田宗及と千利休の2人だけに正倉院の香木を下賜したんだ。
信長が明智光秀に討たれた本能寺の変は、信長の命令で津田宗及が徳川家康のために、堺見物の案内をしているときに起こったと言われているよ。
津田宗及は明智光秀とも親しい間柄だったため、一時窮地に落ちるものの、秀吉に信頼されていたので秀吉の時代になっても三宗匠の1人として信任を得ていたそう。
神谷宗湛が上洛した時には接待を任されたのも津田宗及だったし、北野大茶の湯にも参加しているんだ。
秀吉時代には茶湯者八人衆の一人として数えられ、今井宗久、千利休とともに3,000石の知行を与えられたよ。
【道具の目利きだった津田宗及】
津田宗及は素晴らしい審美眼で戦国時代随一の道具の目利きだったんだ。
茶道具の1つである茶入の切型を作ったのも津田宗及で、茶入の研究の第一人者としても知られているよ。
【天下三宗匠の1人であった津田宗及】
津田宗及は千利休、今井宗久と共に、「天下三宗匠」と呼ばれていたよ。
3人とも堺の豪商で、津田宗及は政商としては今井宗久に一歩譲り、茶道具の工夫では利休に先を越されたと言われているんだ。
津田宗及は秀吉時代にも茶頭として九州征伐に同行するものの、茶頭の主役は千利休に代わってしまったんだ。
津田宗及は、北野大茶会を最後に、秀吉の茶頭としての地位を解かれてしまったの。
利休は茶聖として後世に名を残し、子孫は幕藩体制に組み込まれ茶道の家元として世襲していったよね。
一方、津田宗及は利休が切腹した1年後、屋敷で亡くなったよ。
津田宗及が亡くなった後、後を継いだ嫡男の宗凡には跡取りがなく、天王寺屋本家は断絶してしまったんだ。
ただ宗及の次男である江月宗玩は大徳寺の156世に出世し、娘の南窓栄薫は宮中医・半井云也に嫁ぎ、その子供も大徳寺の195世に出世したんだよ。