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中国国分とは?大大名の毛利輝元領と宇喜多秀家領はどこを収めた?

 

中国国分(ちゅうごくくにわけ)というのは、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と毛利輝元の同盟関係が成立した1583年(天正11年)以降に、秀吉政権によって行われた領土配分のことなんだ。

ここでは中国国分について分かりやすくまとめていくね。

将軍レモン
将軍レモン
中国地方の人は身近な話題だね!

 

【中国国分って何?!】

 

中国国分は秀吉政権によって行われた、山陰道・山陽道にあたる中国路に対する大名など諸領主への領土配分のことだよ。

中国国分は秀吉と毛利輝元の同盟関係が成立した1583年以降に行われたんだけど、秀吉と毛利輝元が同盟関係を結ぶ前には戦が起こっているんだ。

それを「中国攻め」と呼んでいるよ。

 

【中国攻めってどんな戦いなの?】

 

中国攻めとは、中国地方における織田信長と毛利輝元との戦のことだよ。

1576年(天正4年)6月に、石山本願寺を支援する毛利水軍と織田水軍が摂津国木津川河口で衝突したのが直接対決の始まりだったんだ。

その後、1577年10月には羽柴秀吉が播磨国に入り、翌月にはほぼ一国を平定したよ。
しかし、1578年には三木城の別所長治や、摂津国在岡の荒木村重らの裏切りが相次いだため、織田勢は劣勢体制となってしまうんだ。

 

1579年には秀吉の工作によって備前の宇喜多氏が織田勢に転じ、形勢は逆転するの。
三木城や在岡城は落城し、秀吉は因幡へ進出したよ。
因幡へ進出した秀吉は、1581年10月に鳥取城を落とし、因幡国を平定したんだ。
この鳥取城は兵糧攻めを行った戦として有名だよね。

 

 

その後、1582年5月には備中国の備中高松城を水攻めにしたんだ。
その翌月には本能の変によって信長は命を絶たれてしまい、その知らせを聞いた秀吉は毛利氏と講和を結んで、戦は終結したんだよ。

 

 

足軽レモン
足軽レモン
鳥取城の兵糧攻めと備中高松城の戦いの水攻めはすごく有名な戦だね!

【中国国分ってどんなことをしたの?】

 

中国国分では秀吉と毛利輝元による領地配分交渉が数年かけて行われたんだよ。
毛利氏は人質の提出によって中国路9か国を有する大大名となったんだけど、秀吉政権に服属することになったんだ。

しかし秀吉は完全には毛利氏を信頼してはおらず、1584年(天正12年)3月には宇喜田秀家に対して毛利氏への備えを命令していたそう。
必ずしも全ての警戒を解いていなかったということが分かるね。

 

領地配分に関する細かい交渉に関しては、毛利氏が服属した後も続いたんだよ。

この交渉の結果、秀吉が求めていた高梁川より東の毛利領の全面割譲は受け入れられなかったものの、備中国の賀陽郡・都宇郡・窪屋郡、美作国と備前国のうち児島郡が毛利氏より割譲されることで決着したんだ。

毛利氏より割譲された領地のほとんどは、備前岡山城の城主であった宇喜多秀家に与えられたよ。

秀吉は領土に関しては毛利氏にある程度妥協したんだけど、紀州攻めや四国攻めでは毛利氏に全面的な協力を求め、輝元もこれに応じたんだ。

 

忍レモン
忍レモン
毛利氏を警戒しつつ協力も得て進めていったんだね!

【毛利輝元領と宇喜多秀家領はどこを収めたの?】

 

では中国国分によって毛利輝元領と宇喜多秀家領はどこを収めたのかな?

それぞれの領地をまとめてみよう。

 

・毛利輝元領

安芸国、備後国、周防国、長門国、石見国、出雲国、隠岐国に加えて、備中・伯耆両国のそれぞれ西部を領有する太守となったよ。

中国路における所領の総石高は112万石にもなったんだ。
大名領としては徳川家康に次いで、上杉氏の会津120万石にほぼ等しく、太閤蔵入地(約222万石)の半分にも達していたんだよ。

 

・宇喜多秀家領

秀家は秀吉と毛利氏の領土画定交渉の後、本領としていた備前のほとんどと、毛利氏より割譲された備前児島郡、賀陽・都宇・窪屋の備中3郡、美作国を領地としたよ。
所領の総石高は57万4,000石だったと言われているんだ。

 

こうして中国地方は豊臣政権の元、治められるようになったんだね!

 

将軍レモン
将軍レモン
壮絶だった鳥取城と備中高松城の戦いの記事、九州国分の記事も読んでみてね!