豊臣秀吉の名前について – 出世魚と呼ばれた天下人
2020年4月22日豊臣秀吉の城攻め – 三木合戦 – 三木の干し殺し
2020年4月23日
豊臣秀吉は、「城攻めの名人」と呼ばれるほど、各地の城を攻めていたんだ。
その中でも有名なのが「鳥取城の戦い」だよ。
今回は、鳥取城での戦い「鳥取の飢え殺し」について紹介していくね。
目次
【城攻めの名人と呼ばれた豊臣秀吉】
秀吉は、城の中に突進して敵軍を斬っていくような戦い方はしなかったんだ。
そのような無謀な城攻めではなく、秀吉が行ったのは「戦略を立てた戦い」だったの。
その方法の1つが「兵糧攻め」と呼ばれているよ。
兵糧攻めとは、相手の城を無理やり攻める「力攻め」ではなく、長期間城を包囲する攻め方のこと。
兵糧とは軍隊の食糧のことをいうよ。
つまり、長期間城を包囲することで、敵の食料補給を断ち、兵糧を欠乏させることで打ち負かす攻め方なんだ。
兵糧攻めは時間とお金がかかるものの、確実に相手を倒すことができる、自分の兵力が劣らないという戦術になるよ。
この戦術は、豊臣秀吉と秀吉のついていた軍氏の黒田官兵衛が考え出したものなんだ。
【鳥取城の飢え殺しってどんな城攻めだったの?】
秀吉による城攻めの中でも鳥取城の戦い、別名「鳥取の飢え殺し」は歴史上とても有名だよね。
鳥取城への城攻めは、史上最悪の兵糧攻めであったといも言われているんだよ。
1580年、織田信長から中国地方攻めを命じられた秀吉は、山名豊国が城主であった鳥取城を包囲したんだ。
この鳥取城包囲は3ヶ月の籠城戦になり、兵糧攻めで織田方に降伏し勝利したよ。
しかし、その後、因幡山名家の家臣が、山名豊国を追放して、毛利家につくんだ。
それによって、秀吉は2回目となる鳥取城を包囲し、兵糧攻めを再び行ったよ。
【なぜ「飢え殺し」と呼ばれるの?】
秀吉が行った鳥取城の兵糧攻めのやり方は、こうだったんだ。
・鳥取城の近くに住む農民を2000人以上鳥取城へ追いやる
・若狭国から商船を因幡に送り込み、米を高い値段で買い、すべての米を買い占める
・城に籠もる人数を増やし、徹底的に兵糧を断つ
鳥取城には1400人の兵と2000人の農民が籠城することになりますが、20日分の兵糧しか用意していなかったため、鳥取城内に籠城していた人たちはすぐに飢餓状態になったそう。
城内にいた家畜や雑草などもすぐに食べ尽くしてしまって、包囲から4ヶ月経過した頃には、餓死する人が続出したんだ。
さらに食べるものがなくなり極限状態になった人たちは、負傷した人間を食べる行動もあったと記録されているんだよ。
なんと、残酷な話なんだろうね…
結局、当時の鳥取城城主であった吉川経家が、切腹の代わりに城兵と農民たちを助けてほしいと条件を付けて、この鳥取城の戦いは幕を閉じたんだ。
このことから「鳥取の飢え殺し」と代々言い伝えられるようになったよ。
開城後、秀吉は空腹な兵士のために食糧をふるまったそうだが、空腹のあまりに勢いよく食べた人が次々と亡くなったという記録も残っているとか。
なんと、生存者の過半数が命を落とした…ともされているんだ。
これは極度の飢餓状態から、急に過度の栄養摂取をしたことによっておこるショック死(リフィーディング症候群)であったと考えられているよ。
【まとめ】
鳥取城の飢え殺しは、日本史上に残る悲劇の兵糧攻めであったことがよく分かるね。
あまりの惨さから、テレビや映画、小説など創作物ではこの戦いの描写を避けることもあるみたい。
通常の兵糧攻めで降伏しない場合、力攻めに転じるのが一般的だけど、秀吉はそのような行動を一切せずに、じっと時が経つのを待つだけだったんだ。
これは、秀吉軍の死傷者を最低限に抑えたいという目的があったとされているよ。
このことからも、秀吉がいかに頭を使う戦い方に長けていたかがよく分かるね。