豊臣秀吉の城攻め – 鳥取城の戦い – 鳥取の飢え殺し(かつえごろし / 渇え殺し)
2020年4月23日豊臣秀吉の城攻め – 高松城の戦い – 備中高松城の水攻め
2020年4月24日
「城攻めの名人」と呼ばれた豊臣秀吉は、今までとは違う戦略で色々な城攻めを行ったそう。
前回は「鳥取城の飢え殺し」として有名な兵糧攻めについてまとめてみたよね。
今回は、秀吉の城攻めの中でも「三木合戦・三木の干し殺し」についてまとめてみよう。
目次
【三木合戦ってどんな戦いなの?】
三木合戦は1578年(天正6年)から1580年(天正8年)まで続いた、織田家と別所家の戦いのこと。
別所家はもともと織田氏に就くことにしていたものの、中国地方を制していた毛利氏と友好関係を築いていたため、織田氏から毛利氏へと寝返ってしまったんだよ。
別所氏の寝返りによって、織田氏が別所家を含めて、そこに就いた諸将たちと戦ったのが「三木合戦」だったと言われているんだ。
その合戦を一任されていたのが、城攻めの名人である豊臣秀吉だったんだよ。
【播磨三木城を兵糧攻めした秀吉】
三木合戦で、別所家は播磨三木城に、7500人もの兵を連れて籠城する作戦を打ち出したんだ。
そこで秀吉は、兵糧攻めを実行することに。
別所家は兵力が多いものの、籠城するにはあまりに人数が多く、すぐに兵糧不足になってしまうことは明らかだったんだ。
友好関係を結んでいた毛利軍は、海から兵糧を補充して、支城に運ばれ、三木城に補充されたそう。
そのことをしった秀吉と軍師、黒田官兵衛は毛利氏の支城を落としていき、兵糧の補給ルートを徐々に潰していく作戦をとったんだ。
途中、毛利氏との戦いであった上月城の戦いでは、落城に1度失敗してしまうものの、2回目の戦いで落城に成功したよ。
【黒田官兵衛が監禁されてしまう?!】
上月城を落城させたものの、今度は織田氏の武将である荒木村重が毛利側に離反して、有岡城に立てこもってしまううんだ。
この有岡城ができたことから、三木城への補給ルートが確保されてしまうんだけど、兵糧不足は続いていたそう。
荒木氏を説得するために、黒田官兵衛は有岡城に行くものの、そこで捕虜のように監禁されたとも言われているよ。
【ついに三木城は兵糧攻めで落城・・】
兵糧不足で危機的状況であった別所家は、秀吉の本陣である平井山へ2500もの兵を送り込むよ。
けれどその策は結局失敗に終わり、ついに秀吉は、有岡城と三木城の間にあった淡河城を落城させ、兵糧ルートをことごとく無くすことに成功するんだ。
その後、毛利氏側についていた武将が寝返るなど毛利郡も別所家に援軍を送り出すことができなくなってしまい、ついに有岡城は織田軍に落城されちゃうの。
1508年になると、別所家が籠城していた三木城の兵糧が底をつき、数千人もの兵士たちが餓死したと言われているんだ。
城主であった別所長治は降伏し、自分が切腹をする代わりに、城に残っている兵を助けてほしいと懇願。
長治一族は全員切腹したことで、2年間にも及んだ兵糧攻めは幕を閉じたんだ。
【悲惨な兵糧攻めから「三木の干し殺し」と呼ばれるように】
三木城の兵糧攻めは、鳥取城での兵糧攻めと同じようにとても悲惨な状態だったんだ。
三木城内では、在庫の穀物が全てなくなった時には、すでに数千人もの餓死者が出ていたと言われているよ。
初めの頃は、ぬか、馬のまぐさを食べて飢えをしのいでいたけれど、その後は、牛馬、鶏、犬を食べ始め、最後には死者の人肉を食べるものも続出したとか。
三木城への山越えの最後の秘密の食料搬入山岳ルートの拠点であった霊場丹生山の明要寺が発見され、秀吉軍の夜襲によって潰されてから食料事情が急激に悪化したそう。
何千人もの人が餓死した三木合戦はいつしか「三木の干し殺し」と呼ばれるようになったんだ。
秀吉は、他の人が考えつかない奇抜な発想で、敵軍を混乱させて様々な戦を勝ち進んだと言われているよ。
特に秀吉は、刀で切り合う戦を好まなかったため、兵糧攻めを重いついたんだ。
刀で斬り合う合戦はもちろん悲惨だけど、時間と労力をかけて、敵軍を餓死させるという戦法も想像を絶する悲惨な光景だっただろうね…。