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2020年5月12日(画 : 肥後から豊後へ侵攻した島津義弘)
天下統一を目前にした豊臣秀吉は、九州を制する島津家と戦を行うんだ。
それがあの有名な「九州攻め(九州平定)」だよ。
今回は、九州攻めと九州国分について分かりやすくまとめてみよう。
目次
【九州攻めって?】
九州攻めは秀吉の「九州征伐」「島津征伐」、「九州平定」「島津攻め」という名称で呼ばれることもあるよ。
1586年(天正14年)7月から1587年(天正15年)4月にかけて行われた秀吉と島津氏など九州諸将との戦いを総称して「九州攻め」と呼んでいるんだ。
【なんで九州攻めは始まったの?!】
1585年8月に四国平定を成し遂げた秀吉は、天下統一まで残すは九州と北条氏の関東の一部だけとなったの。
その頃の九州地方では、薩摩の「島津氏」の勢力が南九州から中九州を制圧していたんだ。
さらに東から北九州制圧ももくろんでいて、大きな勢力を持っていたと言われているよ。
豊後(東九州・現在でいう大分県)の大友宗麟は島津氏の圧迫を回避するために、天下統一の道を目前としていた秀吉の援軍を求めたんだ。
これを受けて、秀吉は1585年10月に島津氏と大友氏に対して、朝廷の権威を使用して九州停止令を発令したんだよ。
秀吉が発令した九州停止令に対して、大友氏はすぐに受け入れたものの、島津氏はなかなか応じなかったんだ。
そこで翌年の1586年3月に、秀吉は島津氏の占領地を大友氏に返還する「国分案」を提示するものの、これも島津氏側は拒否。
さらに、大友氏への攻撃を再開したので、ついに秀吉は島津氏討伐のために「九州攻め」に踏み切ったんだよ。
【九州攻めはどんな戦いがあった?】
九州攻めはいくつかの戦をとりまとめた総称だよ。
九州攻めの戦いは
・筑前の戦い(福岡・佐賀)
・豊前・豊後の戦い(大分)
・秀吉の九州出兵 日向の戦い
・秀吉の九州出兵 豊前の戦い
・秀吉の九州出兵 薩摩の戦い
・根白坂の戦い
などがあるよ。
【秀吉が行った九州攻めでの動員兵力はどれくらいだった?】
秀吉は亡き織田信長の計画に沿って、九州攻めを考えていたみたいで、入念な準備を進めたんだ。
秀吉の命令によって、中国から毛利軍、四国から長曾我部軍が先に九州へ渡海出陣を始めるの。
その後、秀吉は1586年12月になって、20数か国の出陣の準備命令を下したんだよ。
1587年1月の備前の宇喜多秀家の1万5000名の軍を皮切りに、総勢12万人の大軍が九州を目指したんだ。
北部九州に駐屯している部隊と合わせると、現地での兵力はおよそ20万人にもなったと言われているんだよ。
すごい数だよね。
【九州攻めで秀吉軍と島津軍の勝敗を決定づけた板白坂の戦いって?!】
根白坂の戦いは日向国根白坂で行われた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦だよ。
この戦いが秀吉軍と島津軍の勝敗を決定づけたと言われているんだ。
豊臣軍は8万、島津軍は3万5000ほどの勢力であったと言われていて、豊臣軍は根白坂に空堀を備えた防塁に防御柵を幾重にも造作した砦を造営したよ。
島津軍は根白坂の砦へ夜襲をかけるものの、島津軍の抜刀突撃戦法に対して、豊臣軍は鉄砲隊で陣立てして対応したんだ。
この武器の差が一番の決め手となった戦いとなったんだよ。
【九州国分ってなに?】
九州国分(きゅうしゅうくにわけ)は、豊臣秀吉による九州攻めの後、1587年(天正15年)6月に豊臣政権によって行われた九州地方の大名の領土配分のことだよ。
この九州国分によって、それまで島津家の領地であった地は
・小早川隆景が筑前・筑後・肥前1郡の約37万石
・黒田孝高が豊前国のうち6郡の約12万5000石
・立花統虎(宗茂)が筑後柳川城の13万2,000石
・毛利勝信が豊前小倉の約6万石
をそれぞれ与えられたんだよ。
また、大友宗麟の子である大友義統には豊後一国が安堵されたんだ。