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2020年7月7日
「麒麟がくる」第10話では、信長の異母兄である織田信広が登場するね。
ここでは、信長と信広の関係についてまとめてみよう。
目次
【織田信広はどんな人物だったの?】
信長の兄である織田信広は、織田信秀(信長の父)の長男だったけれど、母親が身分の低い側室だったため、家督相続権は正室の子であった信長にあったんだ。
生年はわかっていないけれど、信長とはだいぶ年が離れていたのでは?と推測されているよ。
弟の信長が天下人として英雄となったため、織田信広は愚鈍な兄というイメージがあるんだけど、決してそんなことはなかったんだ。
戦の際には、父である信秀から軍事的にも重要な役割を任されていたんだよ。
天文17年(1548年)3月に起きた第二次小豆坂の戦いでは、織田信広が先鋒を務めたんだ。
けれど、その戦いで織田軍は大敗してしまい、安祥城へ敗走を余儀なくされてしまうんだよ。
その安祥城の守備を任されていたのが、織田信広だったんだ。
安祥城は、三河攻略を目指していた織田軍にとって拠点となる砦で、そこを任されていた織田信広はただの凡将でなかったことが良く分かるよね。
【人質になってしまった織田信広】
天文18年(1549年)3月、今川義元の配下・太原雪斎率いる今川・松平連合軍2万の軍政は安祥城に攻めかけていくよ。
この時は、今川軍の攻撃のヘマによって、織田軍は撃退に成功するものの、天文18年(1549年)11月に再び雪斎に攻められた際には、援軍が入るものの、耐え切れず。
安祥城で国境を守っていた織田信広は、今川軍の標的となって、攻め込まれついに城は落ち、捕らえられてしまうんだ。
今川方は最初から信広を生け捕りにするのが目的の戦いだったんだよ。
ではなぜ、信広を生け捕りにする必要があったのかな?
その理由は、「人質交換の駒にするため」だったんだ。
人質交換の相手とは、2年前から織田家の人質になっていたのちの徳川家康「竹千代」だったの。
竹千代の父である松平広忠は、今川氏の傘下となっていて、その広忠亡きあと、その跡取りである竹千代は三河を支配する上でとても重要な駒だったんだよ。
10話の中で、今川氏からの人質交換の要求に苦慮する信秀に対して、信長が言ったセリフがこちら。
「竹千代は三河の主となる若君。それを今川に渡すなど、尾張の命運にも関わります。兄上は戦下手ゆえ捕らえられた。自業自得ではありませぬか。捕らえられる前に腹を切るべきであった!」
実兄である信広に対して、血も涙もない冷酷な言葉を言っているよね。
しかし、正論といえば正論。
戦に負けても信広が捕虜されていなければ、こんなことにならなかったという信長の気持ちもわかるよね。
【結局、信広と竹千代は人質交換される】
結局、信秀は息子を見殺しすることはできず、今川氏からの人質交換に応じることになるんだ。
信秀からすると、息子かわいさの親心だったのかもしれないね。
この人質交換によって三河は今川氏の支配下に入ることになったため、織田氏の三河侵攻はあえなく失敗に終わったんだよ。
【信長の清州城乗っ取りを画策した信広】
1551年に父・信秀が亡くなると、信長が跡を継いだんだ。
家督継承した当初は、信広も信長に従ったものの、家督継承の5年後には清州城の乗っ取り計画を画策するの。
この計画は信広の単独行動ではなく、背後には美濃の斎藤義龍も関係していたんだ。
斎藤家に、陽動作戦で織田領付近まで出兵してもらって、防御のために信長が出陣したらその隙に信広軍が清州城へ入って、挟み撃ちにして城を乗っ取ろうという計画を立てたの。
計画が実行されたのは弘治2年(1556年)のこと。
しかしこの計画を見破った信長には全く通用しなかったんだ。
信長は、佐脇藤右衛門に対して「絶対に城を開けるな」と命じ、周辺の警備も普段以上に強め、信長の帰陣まで誰も入れないように申し付けたよ。
そんなことはつゆ知らず、やってきた信広軍は、城の中に入ることができず、裏切りの痕跡だけが残されたんだ。
でも信長は兄・信広を誅するようなことはしなかったんだよ。
計画未遂に終わった兄を殺してしまうよりも、恩を売って置いて忠誠を誓わせた方が得と考えたんだ。