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「麒麟がくる」第9話では、婚儀に上機嫌な信秀と正室・土田御前が、信長が持参した祝いの品を見て激しく叱責する様子が描かれているよね。
父にも母にも愛されない孤独な信長の姿が印象的だったけれど、本当に信長と信秀、土田御前は仲が悪かったのかな?
ここでは、織田信長と織田信秀・土田御前との関係性についてまとめてみよう。
目次
【父・織田信秀と織田信長が不仲と言われるエピソードはあるの?】
「麒麟がくる」では信秀と信長はあまり仲がよくないようなエピソードが描かれているけれど、実際はどうだったんだろう?
織田信長と父・信秀は不仲だったと言われているのは、焼香を投げつけたというエピソードがあるからなんだ。
この焼香を投げつけたエピソードは、父・信秀の葬式時のこと。
信長は袴もはかずに、髪型はいつも通り、刀はわら縄で巻きつけたという格好でやってきたそう。
そのいで立ちでお焼香に立ち、焼香をつかむと仏前へ投げつけて帰ったと言われているんだ。
現代で考えると、葬式に喪服も着ずに派手な格好で現れて、焼香を投げつけたということ。
これってとんでもないエピソードだよね。
このエピソードは信用性が高い「信長公記」にも記されているので、どうやら実話のよう。
このエピソードがあることから生前から信長と父・信秀は不仲であったのでは?と言われているんだよ。
【信秀は3男の信長を後継者にした理由は?熱心な教育パパだった?】
信秀と信長は不仲であったという説が一般的ですが、実際のところはよくわかってないの。
織田信秀は非常に子供が多く、男子12名、女子10名も子供がいたそう。
信長はその中で、三男にあたるんだ。
上の兄2人は側室の子供で、正室の土田御前の嫡出子は、三男・信長、四男・信勝、六男・信包になるよ。
戦国時代は、江戸時代とは違い、家督相続に関して嫡出長子相続ルールは決まっていなかったものの、原則としては長男が家督相続していたんだ。
信長の弟、信勝は信長に何かあったときの控えであり、非嫡出子の長男・信弘は、信長や信勝に何かあったときの押さえという立場だったと言われているよ。
また、信秀はひどく熱心な教育パパであったといわれていて、信長にはたくさんのお金をかけて、京都からその道の師を呼び寄せ、英才教育を施していたことが知られているんだ。
このことからも、信秀と信長が不仲であったのか?は確かではないよね…。
【信長の母・土田御前は、兄・信長よりも弟・信勝をかわいがっていた?】
信秀の正室で信長の母である土田御前は、信長よりも弟の信勝をかわいがっていたというエピソードが残っているんだ。
このエピソードも、信長が両親と不仲だったのでは?と言われる理由になっているよ。
歴史作家である津本陽氏のベストセラー「下天は夢か」の中で「信長は生まれおちたときから癇が強く、母の愛が薄かった。母は素直な弟・勘十郎信行(信勝)をかわいがり、ともに暮らしていた」とあるの。
実は、これが通説となっていて、土田御前は信長をかわいがっていなかったのでは?と言われているよ。
実際のところ、本当に不仲であったかは分からないの。
正室の嫡男誕生を喜んだ信秀が、畿内から名家の乳母を連れてきて、生母・土田御前から離して信長を養育したため、そういわれているのでは?という説もあるんだ。
逆に、次男の信勝からは、信秀は信長の時ような英才教育をしておらず、土田御前の手元で信勝らを育てることができたそう。
そのことから、信長は父にも母にも愛されていなかった孤独な人間であったと、ドラマでは描かれているんだね。