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2020年6月20日
「麒麟がくる」第5話では、道三からの命を受けた明智光秀が鉄砲の作り方を学ぶため再び京へ向かったね。
そこで本能寺が登場してきたよね。
明智光秀といえば、「本能寺の変」で、主君・織田信長を討ったことで知られているけれど、本能寺ってどんなお寺だったんだろう。
今回は本能寺についてまとめてみよう。
目次
【本能寺は京都にある法華宗本門流の大本山、現在の場所とは違う場所にあった?!】
「本能寺の変」として知られている本能寺は、京都府京都市中央区にある法華宗本門流の大本山だよ。
本能寺の変が起こった当時と、現在の本能寺は別の場所にあり、本能寺の変が起こった当時の場所は現在は住宅街になっているんだ。
1582年ころには堀川四条の近くにあって、その当時の寺域は東西150m、南北300mで、本能寺の消失後、豊臣秀吉が現在地に再建したんだよ。
本能寺跡は、住宅街にひっそりと石碑が建てられているよ。
もともと、本能寺跡のある元本能寺南町には京都市立本能小学校があったんだけど、平成4年に廃校。
廃校後、発掘調査が行われ、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題になったんだ。
現在、本能寺跡は京都市立堀川高等学校本能学舎と高齢者福祉施設が建っているよ。
【本能寺は鉄砲との関わりが強い】
本能寺は早くから種子島や大阪の堺で布教活動を行っていたよ。
このことからも鉄砲や火薬の入手につき戦国大名との関係が深かったと言われているんだ。
1543年、種子島に鉄砲が伝わってすぐの天文13年(1544年)には、国産の鉄砲を生産していたそう。
種子島にたくさんの信者を持つ本能寺に依頼すると鉄砲や火薬の入手がしやすかったんだよ。
信長はその流通ルートに本能寺の利用価値を見出して、境内地の安堵を約束する代わりに、鉄砲や火薬の交易の手助けを促していたんだ。
「麒麟がくる」では鉄砲にまつわるエピソードが丁寧に描かれているよね。
いろいろな諸説があって本能寺で鉄砲が作られていたかどうかの確固たる事実はわからないそう。
ただドラマ内では、本能寺で鉄砲が作られていたという設定になっているんだ。
【鉄砲生産が盛んであった国友村】
ドラマ内に登場してくる国友村。
現在の滋賀県長浜市国友町にあたる国友村は、その当時、鉄砲産地として広く知られていたの。
国友村にはもともと鍛冶師が多く暮らしており、種子島に伝来した翌年から鉄砲作りがスタートしたといわれているんだ。
当時は銃身を作る「鍛冶師」、銃床(じゅうしょう)を作る「台師」、カラクリを作る「金具師」に分かれて、製造されていたんだって。
国友で作られた鉄砲は、銃身の底を塞ぐネジの大量生産を可能にしたことから、たくさんの戦で使われることになるんだ。
この技術は曳山の飾り金具など、その後の工芸品作りにも引き継がれていったよ。
国友の優れた技術は、戦後乱世の後に日本各地に広まっていったと言われているんだ。
【本能寺を愛用していた織田信長】
信長は、本能寺の変が起こる前にも、史実で確認できるだけでも、本能寺の変を合わせて4回も滞在していたんだ。
なぜそんなに本能寺を愛用していたんだろう。
それにはいくつかの理由があるんだ。
1つ目は、先ほど話した通り、本能寺を通して鉄砲や火薬を入手しやすかったためだよ。
2つ目は、当時の本能寺はとても広く、高い塀と堀に囲まれていたんだ。
警備上優れた場所だったため、何度も利用したといわれているの。
3つ目は、天皇家との関わりを強めるためだよ。
本能寺の僧である日承上人は伏見宮第5代邦高親王の子で、信長は日承上人を通じて天皇家とのつながりを持ちたいと考えていたんだ。
信長といえば、比叡山の焼き討ちや石山本願寺との対立など、なんとなく仏教=敵というイメージが強いよね。
けれど、決してそうではなくて、兵力や財力を蓄えて政治的権力を持とうとした仏教勢力に対して「仏教本来の姿に立ち戻るべき」と警笛を鳴らしていたと言われているんだ。