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2020年6月20日
「麒麟がくる」第4話では、織田信秀率いる織田軍と今川家の戦い「小豆坂の戦い」が描かれているね。
では小豆坂の戦いはどのような戦いだったのかな?
また、三河の今川氏についてまとめてみよう。
目次
【小豆坂の戦いってどんな戦だったの?】
小豆坂の戦いは天文17年(1548年)に尾張国から侵攻してきた織田軍と、三河側の今川氏・松平氏の連合軍が繰り広げた戦いのこと。
舞台となった「小豆坂」とは、現在の愛知県岡崎市南西部あたり。
現在は、古戦場跡の碑が立っていて、近くには「小豆坂」の名を冠した小学校もあるそう。
戦国時代、このあたりは織田信秀と今川義元がにらみ合う最前線だったんだ。
この合戦の中心は、その2人なんだけど、遠因は松平家にあったよ。
松平家とは徳川家康の家元。ただ家康ではなく、家康の祖父の世代の話なんだ。
その当時、家康の祖父である松平清康は西三河のほとんどを支配。
しかし、天文4年(1535年)に森山崩れと呼ばれる騒動によって命を落としてしまうんだ。
出陣中に家臣が謀反を起こしたことで当主の清康が殺されてしまったから、さあ大変。
松平家は大混乱に陥るよ。
家督は清康の嫡子・松平広忠に引き継がれたものの、織田家と今川家の間で、松平家は苦しい状態に追い込まれてしまうんだ。
同じころ、尾張南部で勢力を強めていた織田信秀はそのチャンスを見逃さず、三河の安祥城を手中におさめるよ。
この安祥城は松平家の本拠だった岡崎城と目と鼻の先。
攻められた松平家はもう終わりだ…と思ったかもしれないね。
その状況下で東から松平家の領地へ侵入してきたのが今川義元だったんだ。
小豆坂の戦いは第一次合戦と第二次合戦があったと言われており、第二次合戦では織田軍の方が優勢だったと言われているんだ。
しかし、今川氏の伏兵が織田軍の本陣に襲いかかり、織田軍は総崩れし、敗北。
この戦いで、信秀はけがを負うことになるよ。
【のちの家康と信長が出会うきっかけとなる】
第一次合戦と第二次合戦の間、織田家、今川家、松平家をめぐって様々なことが起こるんだ。
その1つが、竹千代(のちの徳川家康)に関すること。
第一次小豆坂合戦の後、松平弘忠はより強く今川家の保護を受けたいと考えたんだ。
そこで、広忠は三河進攻で今川氏へ加勢を乞うものの、その見返りとして、竹千代を人質として要求されてしまうよ。
6歳になった嫡男の竹千代を今川家本拠の駿府城へ送ろうとするんだ。
しかし、その護送の途中で田原城の城主・戸田康光に裏切られてしまい、真逆方向の織田家へと送られてしまうんだよ。
竹千代を手に入れた織田側は、再三、広忠を脅すけれど、広忠は今川氏への従属を貫いて要求に応じなかったため、竹千代はそのまま尾張国に留め置かれてしまうんだ。
この出来事は小説やドラマなどでもよく取り上げられるシーンとして有名で、これがきっかけで信長と家康が知り合うというエピソードとして使われているんだ。
ただ史実ではまだ確定していないそう。
ちなみに「麒麟がくる」では、竹千代が成長後の松平元康(のちの徳川家康)を風間俊介、松平広忠を浅利陽介が演じているよ。
【家康の父、松平広忠はどんな人物だった?】
徳川家康の父として知られる三河の戦国大名である松平広忠。
広忠は、父・清康に代わって家督を継ぐと、城を追われピンチを迎えるものの、今川義元の助力を得て、岡崎城を取り戻すよ。
しかし、織田軍に攻められ窮地に陥る広忠は、苦境を切り抜けるために選んだのが婚姻だったんだ。
隣国の水野家と手を組むために、水野家の娘である於大の方と結婚し、その間に生まれた子が竹千代(後の家康)なんだ。
しかし水野家との同盟も長続きせず、今川家を再び頼るものの、広忠は家臣に刺された傷がもとで、24歳という若さで生涯を終えてしまうんだよ。
家康の父である松平広忠は、織田家と今川家の間に挟まれ、一向にまとまらない一族、家臣団のやりくりに奔走した一生だったんだ。