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「麒麟がくる」第3話では、尾美としのり演じる土岐頼芸が登場するね。
ドラマの中では守護ではあるものの、頼りなさそうな雰囲気を醸しだしている頼芸。
土岐家は源頼光を祖とする名門美濃源氏の後裔なんだよ。
ここでは、守護である土岐頼芸についてまとめてみよう。
目次
【土岐頼芸ってどんな人物だったの?】
「麒麟がくる」の中でも存在感を発揮しているえ土岐頼芸(ときよりあき)
明智光秀の主君である斎藤道三とは守護と守護代という関係でありながら、対立関係にあるんだ。
また頼芸は土岐氏当主で兄よ頼武やその子供である頼純とも対立し、美濃国とその周辺国を巻き込んだ争いの末に、土岐氏当主である美濃守護になったんだよ。
土岐頼芸は1500年に美濃国守護職にあった土岐政房の次男として誕生。
「守護」といえば、室町時代には非常に高い身分であったんだ。
しかし、頼芸が生まれた時代は、応仁の乱によって幕府の権威が失墜していた戦国時代。
美濃国は本来であれば、守護である土岐氏が治める国なんだけれど、戦国時代は守護代・斎藤家の名跡を継いだ斎藤道三がその勢力を拡大していたの。
美濃の実権を握っていたのは道三なんだよ。
室町時代末期には、室町幕府が権力基盤を弱めただけではなく、一方で守護大名の権威も低下していたそう。
国元で勢力を強めた守護代にとってかわられる守護大名も多く、下位の者と上位者が入れ替わるというまさに「下克上の時代」だったんだ。
頼芸は土岐家のお家騒動や美濃の権力闘争にまみれの生活を送ることになるよ。
守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。
from Wikipedia
守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。
from Wikipedia
【文化人としても知られている土岐頼芸】
ドラマの中では、土岐頼芸が鷹の描くシーンがあるよ。
実は、頼芸は文化人としても知られており、、いくつもの書画を書き残しているんだ。
特にその中でも鷹の絵を得意としていて、頼芸が描いた鷹の絵は「土岐の鷹」として珍重されているんだ。
だからドラマの中でも鷹の絵を描くシーンがあるんだね。
土岐頼芸以外にも、美濃の守護である土岐氏は代々、文化や文芸に秀でた人物が多かったそう。
頼芸以外にも、一族が好んで描いた鷹の絵は評価されており、公家衆の間でも有名だったんだよ。
ドラマ内では、一説には土岐氏の描いたものといわれる実際の「鷹図」を借りて複製し、頼芸の居室のセットに飾ったそう。
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【道三によって美濃を追われる頼芸】
対立関係だった斎藤道三と織田家が手を結んだことによって、頼芸は美濃国で完全に孤立状態になってしまうんだ。
一方、道三はこのチャンスを無駄にすることなく、頼芸を無視して「文書の発給」を始めるよ。
領地や山林、水産資源の争いなど国内のトラブルを処理するのは統治者としてとても重要で、文書の発給は公的に「自分がトップである」ということを宣言したようなもの。
1549年には道三は美濃の権力を完全に掌握して、その翌年には頼芸を追放してしまうんだ。
しかし、国を追われた頼芸は、異常なまでにしぶとかったそう。
これまでも粘り勝ちで守護の座についた経験のある頼芸は、返り咲きを求めて織田信秀(高橋克典)に道三の不義理を訴えたんだ。
しかし病床にあった信秀が手を打てるわけもなく…
その当時織田家の外交を担当していた織田寛近によって断られてしまうんだ。
織田氏に見限られてしまった頼芸は、その後、近江の六角氏の元へ助けを求めにいくよ。
六角家に滞在していたものの、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、その途上にあった六角氏は敗北。
頼芸は近江を去り、次に武田家の元に身を寄せたんだ。
その間に頼芸は病気で失明してしまったと言われているんだよ。
武田家に行った後、織田信長の甲州征伐の時に、かつての旧臣でもあった稲葉一鉄のはからいで美濃国に戻れたんだって。
そして、その半年後の天正10年12月4日(1582年12月28日)に享年81で亡くなったと言われているよ。