徳川家康の側近で徳川家康の神号「東照大権現」を提言した南光坊天海とは?
2020年6月2日風神雷神図屏風で有名な俵屋宗達とは?尾形光琳や酒井抱一などの絵師も描いた国宝
2020年6月3日
織田信長の家臣であった太田牛一が信長の生涯をまとめた「信長公記」を知っている?
信長のことを知るにはとにかく信長公記を読むしかない!と言われているほど、その内容は詳しいんだ。
ここでは信長公記(しんちょうこうき / のぶながこうき)についてまとめてみよう。
目次
【信長公記ってなに?】
信長公記は織田信長の家臣であるえ太田牛一が信長の生涯をまとめた記録だよ。
その記述はとても詳細で、かつ正確なんだ。
長篠の戦いなどいくつもの出来事の様子をまざまざと伝えているよ。
戦国時代~安土桃山時代にかけての史料であり、原本は江戸時代初期に成立したんだ。
全16巻からなる信長公記は、信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛する前までを首巻としているよ。
上洛から本能寺の変までの15年間の記録が1年1巻として、まとめられているんだ。
【みんなが知る明言も信長公記がルーツ】
信長公記は、信長の死後に太田牛一が書きおこしていて、これなしでは信長を語ることはできない!といっても過言ではないの。
現在知られている信長のエピソードや生涯については、この信長公記がネタ元となっているよ。
本能寺の変で、明智光秀が謀反を企てたことを知った際に、信長が言った言葉「是非に及ばず」はあまりにも有名だよね。
実はこの言葉も、太田牛一が「信長公記」に記したものなんだ。
牛一は信長の死の直前まで仕えていた侍女を取材し、この言葉とともに本能寺の変の様子をまとめあげたんだよ。
著者である太田牛一はとにかく筆まめで、日々たくさんのメモを残していたんだ。
そのメモを整理して信長公記を書き残したんだよ。
ちなみにこの信長公記は、印刷出版はされず、太田牛一自筆の本を、本人や人々が書き写すことで冊数が増え、世間に広まったそう。
現存する信長公記は数えるほどしかなく、全巻がそろった自筆本はわずか二冊だけなの。
【信長公記の著者・太田牛一とは?】
信長公記の著者である太田牛一は、通称又助といい、大永7年(1527年)生まれで信長の7歳上になるよ。
現在の名古屋市北区出身で、牛一自身も信長公記に3回登場しているんだ。
牛一は、弓の腕前に優れている武将であり、若い頃には尾張にある天台宗の常観寺の僧侶でもあったんだ。
その後、僧侶から還俗(出家していたのが再び俗世に戻ること)し、弓の腕を買われて織田家に仕えることになるよ。
実は、牛一は織田家につかえる前は守護大名の斯波義統に仕えていたの。
しかし、斯波義統が織田信友に討たれた後、その嫡男である義銀に従い、信長に仕えるようになったと言われているの。
【弓の使い手として側近となった太田牛一】
太田牛一は弓の名手だったため、弓でめざましい働きをしたの。
その優れた腕前が信長の目にとまって、信長の側近として仕えるまでになったよ。
信長の側近として仕えていたことから、牛一は信長の詳細を記録に残すことができたんだね。
さらに太田牛一は弓衆3人、鑓(やり)3人の「六人衆」にも選ばれ、永禄7年の堂洞城攻めでは二の丸門近くにある建物の屋根に上って、高所から弓を放ち活躍するなど武将として成功しているんだ。
信長の死後、太田牛一は信長の配下であった丹羽長秀に仕え、長秀が亡くなった後は息子に家督を譲り、加賀で一時隠居の身となったよ。
その後、秀吉から要請を受け、豊臣家につかえるようになったんだ。
豊臣秀吉の元では、行政官として働き、寺社行政や検地などをおこなったそう。
【信長公記以外の著書はあるの?】
太田牛一の著書は信長公記が有名だけど、実は信長公記以外にも著書はあるんだ。
秀吉に仕えていた太田牛一は、秀吉没後に秀吉の一代記である「大かうさまくんきのうち」を執筆。
「大かうさまくんきのうち」とは「太閤様軍記の内」の意味となっているよ。
さらに、豊臣秀次の記録、関ヶ原合戦を中心にした徳川家康の記録「関ヶ原御合戦双紙」なども残したんだよ。
太田牛一が多くの英雄たちの記録を残してくれたおかげで、彼らのエピソードを知ることができたんだね。