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徳川家康、秀忠、家光の徳川三代に仕えた天台宗の高僧といえば南光坊天海だよ。
ここでは南光坊天海(なんこうぼうてんかい)についてまとめてみよう。
目次
【南光坊天海ってどんな人物だった?】
南光坊天海は徳川家康の側近で、家康、秀忠、家光の徳川三代に仕えた僧だったんだ。
別名「慈眼大師」「智楽院」とも言われていて、推定108歳まで生きたんだよ。
家康の死後の称号である「東照大権現」の名づけ親も南光坊天海なんだ。
南光坊天海は天台宗の高僧で、徳川幕府の陰の参謀でもあるよ。
出身は陸奥国会津郡と考えられ、11歳の頃に家督を弟に譲り龍興寺へ出家。
14歳の頃には、故郷・会津を出て修行の旅にでるんだ。
この時に、天台宗を学んだと言われているよ。
1571年には明智光秀の仲介を受けて、甲斐の武田信玄に招かれることに。
そこで天台論議法要の講師を務めたこともあったんだ。
その後、徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策や宗教政策に深く関与したと言われているよ。
【明智光秀の生まれ変わり?!と言われている南光坊天海】
南光坊天海は自らの出自を弟子たちにも語らなかったと言われている謎めいた人物なんだ。
そのため、足利将軍の隠し子説や、姿を変えて生き残った明智光秀であるという説まであるんだよ。
【徳川家光は南光坊天海を崇敬していた?】
徳川家康と南光坊天海は年齢が近かったため、徳川家光にとっては家康と南光坊天海が重なることが多かったそう。
家光の南光坊天海に対する崇敬ぶりはすごく、江戸城にあった家光誕生の間と春日局化粧の間を、南光坊天海のお寺である喜多院に移築するほどだったとか。
喜多院に行けば、当時の江戸城の御殿をしのぶことができるんだよ。
1624年に、関東総本山として上野に寛永寺を創建したんだ。
それまで徳川家の菩提寺は2代将軍・秀忠が眠る増上寺だったんだけど、寛永寺ができてからは徳川将軍家の祈祷所・菩提寺となったんだ。
南光坊天海を崇敬していた家光の葬儀も寛永寺でおこなわれたんだよ。
【都市プランナーだった南光坊天海】
南光坊天海は都市プランナーとしても活躍したんだよ。
慶長8年(1603年)に徳川家康が幕府を開いた時、江戸は廃墟に近い状態だったの。
この廃墟と化した江戸を、新しい武士の国にするために、活躍したのが家康の側近であった南光坊天海なんだよ。
南光坊天海は東西南北に青竜・白虎・玄武・朱雀の4つの守り神を配置し、天台密教や陰陽道に基づく都市として構築したの。
そして、宗教的曼荼羅の結界を張り巡らせたんだって。
江戸に流れ込んでくる諸藩の取り潰しによって大量発生した浪人や芸能漂白民、宗教者など危険とみなされる者は、江戸の結界の外側で囲い込み、厳しい監視下に置くようにしたそう。
また朝廷の権力は、太陽の沈む西にある京都を「死の国」になぞらえることによって封じ込めようとしたんだ。
なんとも恐ろしい話だよね。
【家康の神号「東照大権現」の名付け親】
南光坊天海は家康の死後の神号である「東照大権現」を名づけたことでも知られているよ。
家康の死後、家康を日光山に神として祭るのに、その称号を「権現」にするか、「明神」にするかで大論争が起こったんだ。
南光坊天海は「権現」を主張し、南光坊天海と同じく家康の側近であった金地院の崇伝(すうでん)は、「明神」にすべきだと主張したの。
崇伝の主張に対して、南光坊天海は「明神」号では豊臣秀吉と同じになるので不吉だと指摘したんだよ。
両者ともに譲らず、激しい論争になったんだ。
最期は二代将軍である徳川秀忠の判断にゆだねられて、家康の称号は「権現」になったそう。