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2020年6月2日
安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は戦国時代から安土桃山時代の臨済宗の僧だよ。
安国寺恵瓊は僧でありながら、武将であり僧籍のまま大名にまでなった異色の人なんだ。
ここでは安国寺恵瓊についてまとめてみよう。
目次
【安国寺恵瓊ってどんな人物だったの?】
安国寺恵瓊は誕生年も出自に関しても、はっきりとわかっていなんだ。
出自に関しては、安芸武田氏の武田光和の子という説や、一族である武田信重の子という説もあるよ。
幼名は竹若丸といい、幼い頃に毛利元就の攻撃によって、安芸武田氏が滅亡してしまうんだ。
滅亡前後に、竹若丸を養育していた安芸武田家臣の戸坂道海に伴われて脱出し、安芸武田氏の菩薩寺であった安国寺に出家したんだよ。
その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となるよ。
竺雲恵心の弟子となる。は毛利隆元と親交があったから、それがきっかけで安国寺恵瓊も毛利氏と関係を持つことになったと言われているんだ。
【毛利家に仕えた外交僧・安国寺恵瓊】
師匠であった竺雲恵心が毛利家の外交僧だったから、恵心が引退した後は弟子であった安国寺恵瓊が後を継ぐことになったんだよ。
毛利氏といえば「3本の矢」の毛利三兄弟が有名だよね。
毛利三兄弟は毛利隆元、吉川元春、小早川隆景で、安国寺恵瓊はその中でも特に小早川隆景に重用されていたんだ。
徐々に、毛利家の外交僧としての地位を確かなものにした安国寺恵瓊は、僧としても京の東福寺、南禅寺の住職にもなり、禅宗の最高位にも就いた高僧に上り詰めたよ。
安国寺恵瓊は毛利家の外交に関わるうちに、持ち前の能力に磨きがかかり、毛利家のネゴシエーターとして戦国の世に名前を知られるようになったんだ。
安国寺恵瓊は人を見抜く眼力に優れていたと言われていて、織田信長の横死や羽柴秀吉の天下統一も予言していたとも言われているんだよ。
【羽柴秀吉の側近として仕えた安国寺恵瓊】
毛利氏の外交僧として仕えていた1582年、毛利氏が秀吉と備中高松城で対陣していた時に、明智光秀によって本能寺の変が起き、織田信長が討たれてしまうの。
この時、秀吉は本能寺の変の事実を隠し、毛利氏に割譲を要求していた備中国・備後国・美作国・伯耆国・出雲国を、高松城主であった清水宗治の切腹を条件に備中国・美作国・伯耆国とする和睦案を提示し、安国寺恵瓊はその和睦を取りまとめたんだ。
停戦した秀吉はその後、中国大返しを行い、姫路城まで駆け戻り、山崎の合戦で明智光秀を破ったよ。
続いて織田家の重臣を集めた清州会議ではついに主導権を握るようになるんだ。
この頃、安国寺恵瓊は毛利家の外交僧としての身分はそのままに、秀吉の側近として仕えるようになったんだよ。
そして1585年6月の四国征伐後には、伊予国和気郡に23000石を与えられ、大名になったんだ。
さらに九州征伐の際には、先だって黒田官兵衛や宮木宗賦らとともに、大友氏や毛利氏の和睦締結のために九州へ派遣。
1585年に毛利氏が正式に羽柴秀吉の軍門に下り、臣従すると安国寺恵瓊は秀吉から賞賛されることになるんだ。
翌1586年には九州征伐が終わり、安国寺恵瓊にはさらに60000石が加増。
安国寺恵瓊は僧でありながら、豊臣大名になるという異例の出世を果たしたんだよ。
その後、安国寺にも1591年に11000石の寺領が与えられているんだ。
【安国寺恵瓊ゆかりの安芸安国寺】
安国寺恵瓊のゆかりの寺である安芸安国寺は不動院という名前で現存しているんだ。
不動院は真言宗別格本山の寺院で、安国寺恵瓊の「安国寺」はこの寺の名前なんだよ。
戦国時代に不動院は戦によって伽藍が焼失してしまうものの、安国寺恵瓊によって復興されたんだ。
安国寺恵瓊は、幼い頃に修行した不動院の住職も兼ねていて、寺領として破格の11500石の規模にて手厚く保護していたそう。
不動院の金堂は1540年の建造物でもあり、国宝にも指定されているんだ。
不動院は1945年の広島市への原子爆弾投下によって被爆。
爆心地から約3.9㎞の位置にあり、爆風により屋根の一部が吹き飛び柱が1本折れたものの倒壊は免れたんだよ。