茶人としても有名な小寺休夢 (こでらきゅうむ / 黒田休夢)は、どんな人?黒田官兵衛との関係性は?
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2020年6月2日
織田信長の兄弟は12男7女もいたんだ。
その中で信長の13歳下の弟であったのが「織田有楽斎」だよ。
織田有楽斎は、武将でありながら茶人としての名が高く、利休十哲の1人でもあります。
ここでは信長の弟である織田有楽斎についてまとめてみようね。
目次
【織田有楽斎ってどんな人物だった?】
織田有楽斎は織田長益のことであり、1547年に織田信秀の11男として生まれたんだ。
母親は不明で、13歳年上の兄には、天下人として歴史上最も有名な武将である織田信長がいるんだよ。
信長が元服した翌年、初陣を飾った頃に有楽斎が生は生まれたんだ
織田有楽斎は若い頃から病弱で臆病な性格であったため、あまり戦には参戦していなかったそう。
1572年に織田信長の嫡男である織田信忠が元服すると、織田有楽斎は26歳で信忠の軍団に加わったよ。
織田有楽斎は茶人として名を残しており、千利休に茶道を学び、利休十哲の1人にも数えられているよ。
後に、自らの茶道である「有楽流」を創始し、京都建仁寺・正伝院を再興。
ここに建てられた茶室「如庵」は国宝にも指定されているんだ。
【信長と織田有楽斎の関係性とは?】
13歳も年の離れた兄弟であった信長と織田有楽斎はどのような関係だったんだろう?
織田有楽斎の初陣は1561年(永禄4年)5月に起こった信長の美濃攻めだったんだ。
この戦いではもたつく織田有楽斎の手助けのために、勇猛は佐々木軍の動きが鈍くなり、信長の機嫌は悪くなったと言われているの。
さらに織田有楽斎は戦いとは全く関係ないときに落馬して負傷。
この事件に兄である信長も織田有楽斎に対して呆れてしまって、その後は戦に出ても織田有楽斎を裏方に回すようになったそう。
つまり芸能界で例えるならば、織田有楽斎の役回りは俳優やタレントではなく、マネージャーという感覚でだよ。
これは織田有楽斎が大人しい性格で、茶人である手政秀の茶道の手ほどきを受けたていたそうで、屋敷で過ごす時間が多かったことも…。
戦よりもり茶などを好む有楽斎は、信長とは正反対ですね。
戦が苦手であった織田有楽斎ですが、政治秘書的役割には長けていたんだ。
近侍する若侍には、文書処理能力、経理能力、外交能力など様々な人材育成を行っていたそう。
信長は他の武将のような武力的な奉公ではなく茶道に詳しく、織田有楽斎に対して外交的な使い方も考えていたと言われているよ。
【利休七哲の1人と呼ばれた織田有楽斎】
織田有楽斎は武将としてよりも茶人として有名だったんだ。
織田有楽斎に茶道を教えたのは、幼馴染の正室の父である「平手政秀」だったんだよ。
後に織田有楽斎は茶堂の立場にまで昇り詰めるの。
平手政秀は地方にありながらも京都の公家を驚かすほどの一流の数奇者だったんだよ。
また、織田有楽斎は「利休七哲」の1人でもあるんだ。
利休七哲とは、茶道の大成者である千利休が亡くなった後に、関係者から選ばれた人々である高弟7人のこと。
利休七哲ははじめ蒲生飛騨・細川三斎・瀬田掃部・柴山監物・高山右近・牧村兵部・古田織部だったけれど、その後古田織部は切腹させられて、代わりに織田有楽斎が加えられたんだよ。
信長軍の物資輸送をする「小荷駄隊」を指揮していた織田有楽斎と千利休は、武器調達と茶道という両面から急速に仲が深まったと言われているんだ。
このように織田有楽斎は幼少時から織田家の家老であった平手政秀から茶の湯の手ほどきを受けて、信長に付き従う内に千利休で出会い、茶の湯の道を極めていき、「有楽流」という茶道をつくりあげていったの。