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快川紹喜は戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺派の僧なんだ。
快川紹喜は有名な辞世を残したことでも知られているよね。
ここでは快川紹喜についてまとめてみよう。
目次
【快川紹喜ってどんな人物だった?】
快川紹喜の俗姓は土岐氏で、美濃国の出身と言われているけど、定かではないんだ。
永正10年(1513年)に快川紹喜が12歳の時に出家。
快川紹喜ははじめ、美濃(現在の岐阜県)のお寺で住職をしていたんだ。
そんなとき、甲斐(現在の山梨県)にいた武田信玄に、「ぜひうちのお寺に来てほしい」と頼み込まれ、武田家の菩薩寺である恵林寺というお寺に入ったの。
快川紹喜が恵林寺に住することになると、信玄は快川紹喜に師事して、禅を学んだり、政治軍事の相談役としても頼ったりしたんだよ。
【織田信長と快川紹喜の関わり】
快川紹喜に転機が訪れたのは1573年の「武田信玄の死去」だよ。
武田信玄が生きていた時には、武田家は無類の強さを誇っていたものの、息子の代になってから弱くなっていたんだ。
長篠の戦いで、織田信長に敗れた武田家は急速に力を失い、ついには滅んでしまったの。
この時、織田信長は高名な禅僧であった快川紹喜に「自分の領土のお寺に入ってほしい」と頼んだそう。
しかし、快川紹喜はその誘いを断ったの。
信長は拒否されたことに怒ってしまうよ。
さらに快川紹喜は、信長と敵対していた武士たちを恵林寺にかくまっていたんだ。
武田領を拠点に反信長の活動を続けていた六角次郎も恵林寺に逃げこんだそう。
織田家に敵対し続けた六角氏をかくまうことは許されることではなかったんだ。
それを知った信長はさらに怒り、武士たちを引き渡せと要求するの。
しかし、快川紹喜はその要求に対しても拒否してしまうんだ。
信長はついに激怒してしまい、恵林寺を部隊で包囲してしまったよ。
お寺を取り囲まれて逃げることができなくなった快川紹喜と、お寺にいた100名余りの僧侶たちは恵林寺の山門に立てこもることに…。
しかし、恵林寺の山門に寺内の僧ら150人余りを集めると二階に押し込み、廊下から山門にかけて、刈り取った草を積み上げるとそこに火を放ったんだ。
山門は炎に包まれ、閉じ込められた快川紹喜と僧侶たちは焼け死んでしまうの。
この時、多くの僧はわめき苦しみ暴れて焼け死んだけれど、快川紹喜は1人だけ冷静沈着で、じっと座ったまま身動きせずに炎に包まれて死んでいったと言われているよ。
【快川紹喜が最後に残した辞世の句とは?】
恵林寺の山門に火を放たれてしまった快川紹喜が残した辞世はとても有名だよ。
それがこちら。
「安禅は必ずしも山水をもちいず。心頭滅却すれば火も自ずから涼し」
現代の言葉に直してみると、
「安らかな禅は、必ずしも安らかな場所を必要としない。逃れたいという思いさえ心に生じることがなければ、、火の中にあっても心は安らかである。」
という意味になるよ。
この「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」というのは、やせ我慢でも嘘でもなくて、紛れもない快川紹喜の心の表れだったのでは?と言われているよ。
心を定めることによって人は苦しみから離れることができる…それが禅の思想の根本だよね。
快川紹喜の言葉は、禅そのものを体現した言葉と言えるね。