身分統制令とは?人掃令との違いと兵農分離との違いや関係性とは?
2020年5月6日太閤検地とは?豊臣秀吉が行った目的と理由をわかりやすく解説
2020年5月6日
秀吉は太閤検地を行うと同時に、刀狩も行っていたんだ。
ここでは秀吉が行った刀狩の目的とその影響についてまとめてみよう。
目次
【秀吉が行った刀狩令とは?】
実は刀狩は鎌倉時代から行われていたという内容が日本史の中でも残っているんだ。
秀吉が行った刀狩令は、1588年(天正18年)に発令され、農民から刀、槍、鉄砲などの武器を没収したんだよ。
この刀狩は、天下人となっていく豊臣秀吉が断続的に行っていくことになるよ。
この頃秀吉がまだ治めていなかった関東地方や東北地方以外のすべての地域で刀狩を行ったんだ。
ちなみに刀狩令と同じ日に、秀吉は「海賊禁止令」という法令も出しているよ。
ここで言う海賊とは、瀬戸内海にいる農民のような身分で、瀬戸内海を通過するすべての船から通過料金を徴収しながら過ごしていたんだ。
しかしこの海賊たちにも、海賊禁止令を出すことで、武器を持てなくしてしまったんだよ。
【刀狩で徴収した武器はどうなったの?】
全国の農民から武器を徴収した秀吉ですが、その武器はいったいどうしていたのでしょうか?
刀狩で徴収された武器は、大仏の建造に使われていたそう。
刀狩をする時も、大仏の鋳造を口実に農民から武器を徴収したと言われているんだよ。
仏教を信仰している農民たちは、この理由を聴いて「さすが秀吉だ!」と思ったそう。
大仏を作るのであれば武器を渡した方がご利益がありそうと農民に思わせることに成功したんだよ。
もちろん、実際に大仏の材料に使うこともしたんだけれど、綺麗な刀は褒美として与えることもしていたんだ。
【刀狩を行った目的は何なの?!】
秀吉が行った刀狩にはたくさんの目的があったと言われているよ。
簡単にまとめてみよう。
・一揆や反乱を防ぐため
刀狩令の目的は、武器を奪うことで農民らが行う一揆を防ぎ、兵農分離を行うことだったんだ。
当時、農民の武装は当たり前で、地侍と呼ばれていたよ。
しかし、室町時代に起きた農民による一揆を知っていた秀吉は、農民が武器を持つことに危機感を持っていたの。
武士よりも人数の多い農民が集まって一揆を起こしてしまうと政権は安定せず、国力が低下してしまうことを知っていたからこそ農民から武器を奪ったんだ。
・安定した年貢を確保するため
秀吉は安定した年貢収入を求めていたんだ。
そのために行ったのが、太閤検地だね。
安定した年貢を集めるためには、農民は農業に従事しなければいけない…
そこで、秀吉は武士と農民を明確に分けることで、農業に従事しなければならないものを明確に把握できるようにしたんだ。
・治安の維持
当時、個人同士のトラブルは武力で解決するという風潮があったそう。
死人がでる揉め事が、多くあったんだ。
秀吉が刀狩を行ったのは、治安の維持を図る目的もあったと言われているよ。
実際に、秀吉は刀狩令と合わせて喧嘩停止令も発令しているんだ。
治安が安定すれば農業に従事するようになり、年貢がきちんと納められるし、国力が落ちることもないと考えたよ。
・京都の方広寺に大仏を鋳造するため
これは表向きの理由だけれど、秀吉は京都に日本一大きな大仏を建造したんだ。
この大仏の建造は、秀吉が天下人であることを知らしめるための政策の1つ。
安定した平和な世の中が続くように願いが込められているんだ。
刀狩で徴収した武器は実際に大仏の材料となったんだよ。
・身分を明確に分別するため
当時の農民は、武士と一般庶民の区別があいまいだったんだ。
村では15歳になると刀指という儀式があって、農民も15歳になると脇差を持っていたそう。
領主の命令があれば武器を持参して戦いに参加することもあったんだ。
農民が武器を持つことが当たり前という時代だったため、武士と農民の区別がつかなったんだよ。
そこで秀吉は武士と農民の違いを明確にするために刀狩を行ったんだ。
【刀狩を行ってどうなった?!】
刀狩令を行ったことによって、農民は農業だけに従事するようになり、武士と農民は明確に分けられるようになったよ。
刀狩令の3年後の1591年には身分統制制が出て、これによって武士は農民になることはできず、農民も武士になることができなくなったの。
より明確に身分が分けられるようになったんだよ。
刀狩令はその考えを受け継ぎ明治時代には廃刀令が出されます。
刀狩は、その後の日本の歴史に大きな影響を与えた法令で、江戸時代になっても農民が刀を所持できない方針は変わらなかったんだ。
秀吉が行った刀狩は一定の成果を上げていて、農民による一揆が減少し、米の生産量も高くなったそう。
秀吉の刀狩令という制作は成功したといえるね。