刀狩の目的と影響とは?天下を統一した豊臣秀吉が安土桃山時代に行った政策を簡単に解説
2020年5月6日奉公構ってなに?現代の社会に今も影響がある豊臣秀吉が全国に行き渡らせた法を解説
2020年5月6日
豊臣秀吉は数々の政策を行ってきたけど、その中でも特に有名なのが「太閤検地」だよ。
太閤検地の名前は聞いたことがあるけど、どんなことをする政策だったのかよくわからない…という人も多いかもしれないね。
ここでは太閤検地についておさらいしてみよう♪
目次
【太閤検地は土地調査のこと♪】
太閤検地は、秀吉が行った全国の田畑の土地調査のことだよ。
太閤検地の「検地」というのは、田んぼや畑の面積、収穫量をその土地の領主が調査することを意味するんだ。
この太閤検地は、土地ごとの生産量を把握して効率よく年貢を取ることが目的だったと言われているよ。
太閤=秀吉のことだから、秀吉が行った検地を「太閤検地」と呼んでいるんだ。
この検地は、秀吉だけではなく、織田信長や、武田氏、毛利氏、今川氏などの他の武将も行っていたそう。
けれど秀吉が行う太閤検地以前の検地は、それぞれ自分たちの基準や方法で行っていたんだ。
だから、同じ土地の面積を計測し、収穫量を調査しているのに、結果を見せ合うと違う…ということも。
そこで秀吉は、全国で太閤検地を行うにあたって統一のルールを決めたんだよ。
【秀吉が統一した検地のルールって?!太閤検地で行ったこととは?】
太閤検地で行ったのは
・単位統一
・水田調査
の2つ。
太閤検地で秀吉は
・面積単位の統一
・京枡の使用
・土地単位の統一
だよ。
の3つを単位統一を行ったんだよ。
京枡は太閤検地が行われる前まではそれぞれ違う大きさの枡が使われていたそう。
それでは正確な測量はできないため、同じ京枡を使うことになったんだ。
また数の統一をしたのも秀吉だよ。
6尺3寸=1間(約191cm)
1間四方=1歩
30歩=1畝
10畝=1反
10反=1町
という単位を統一して、田畑の等級も上、中、下、下々に分けたんだ。
さらに秀吉は、単位の統一以外に、水田の検地も行ったよ。
戦国時代の検地は農村側の自己申告だったんだけど、太閤検地では実際に計測されたんだ。
この調査は水田だけではなく、屋敷地にも及んだそう。
水田の検地を行う時には、土地の収穫高をランク分けしたの。
このランク分けは「石盛」と呼ばれていて、「石盛1段あたりの米の収穫量×土地の面積」によって土地の価値が計算されたんだよ。
この土地の価値は「石高」と言って、水田検地によって割り出された石高によって村や地域の価値が決定したの。
【太閤検地を行ったことで何が変わった?】
秀吉によって行われた太閤検地によって、基準や単位が統一されたことは分かったかな?
この、太閤検地を行ったことによって人々には様々な影響をもたらしたと言われているよ。
さっそく、まとめてみよう♪
・石高制の確立
全国統一で行われた太閤検地によって、お米の生産高が正確に把握できるようになったんだ。
これによって、土地の価値に応じて農民は年貢を納めるようになるよ。
太閤検地が行われる前には、石高制ではなく、貫高制が行われていたんだ。
この貫高制とは土地の単位のこと。
2000貫の土地では、年貢が銭で2000貫とれる土地という意味だったんだよ。
でもこの貫高制は、その土地の実際の面積や米の生産量ははっきりと分からない大雑把なものだったんだ。
農民の中には、収穫量をごまかす者もいたとか…
そこで秀吉は、実際の土地の面積を測り、単位面積当たりの標準生産高である石高を調査したんだ。
この石高制は江戸幕府に継承され、幕藩体制の主軸となったんだよ。
石高制が確立されたことで、効率よく年貢を徴収できるようになったの。
みんなは百万石という言葉を聞いたことあるかな?
石川県金沢市のことを現在でも「加賀百万石」ということもあるね。
この百万石というのはお米の総生産量のこと。
百万石は150,000,000kgで、お金に換算すると約600億円だったそう。
・土地の権利関係が明確化
太閤検地が行われる前は、平安時代後期に成立された「荘園公領制」が採用されていたの。
この制度は、貴族や寺社が支配する荘園と、国司が支配する公領の2種類に分かれていたんだ。
秀吉はこの荘園公領制を廃止し、土地を耕す農民が所有者として年貢を納める「一地一作人の原則」を確立。
これによって、土地の権利関係が明確になって、複雑な年貢納入の流れが簡略化されたんだよ。
・兵農分離が完成
秀吉が太閤検地を行ったとき、刀狩令や身分統制令も同時に行っていたんだ。
これらの政策が複合し、武士と農民を完全に分ける「兵農分離」が完成したそう。
太閤検地によって農民は土地の所有権を認められたものの、その代わりとして年貢を納める義務を負うことになったんだ。
不満があったとしても、刀狩令によって武器を取り上げられていた農民は、一揆や反乱を起こすことができなかったそう。
また、武士が商人や百姓になったり、百姓や商人が武士になったりすることは、身分統制令で禁止されていたの。
だから、農民は農民としてしか、働くことができなくなってしまったんだ。