兵農分離の意味と目的をわかりやすく解説!豊臣秀吉が実施した兵農分離の影響は?
2020年5月6日刀狩の目的と影響とは?天下を統一した豊臣秀吉が安土桃山時代に行った政策を簡単に解説
2020年5月6日
秀吉は刀狩令や海賊禁止令などたくさんの政策を打ち出しているけれど、「身分統制令」もその1つ。
身分統制令を発令したことよって、より兵農分離が進んだと言われているよ。
ここでは身分統制令について分かりやすく解説していこう。
目次
【身分統制令ってどんな法令なの?】
身分統制令は1951年に発布された法令だよ。
この法令は、「武士は、百姓や商人になってはいけない百姓や商人も武士にはなってはいけない」という内容で、農民は農民のまま働くように縛りつけたんだ。
身分統制令は3カ条の法令で
・侍、中間、小者ら武家奉公人が百姓や町人になることは禁ずる
・百姓が耕地を放棄して、商いや日雇いに従事することは禁ずる
・逃亡した奉公人を他の武家が召し抱えることを禁ずる
という内容だったんだ。
これに違反した場合は、成敗されていたそう。
【身分統制令と人掃令は同じ?!】
秀吉が行った政策の中で人掃令というものもあるんだ。
この人掃令と身分統制令は呼び方は違うものの、内容的にはほぼ同じものだよ。
1591年に秀吉がおこなった身分統制令は、武士・侍が商人や農民になることを禁止した制度だよ。
また、農民が商人や職人になることも禁止されたんだ。
この身分統制令は朝鮮出兵のための準備の一貫で、朝鮮出兵に向けて武士と年貢を負担する農民の人員を確保することが目的だったそう。
武士が農民になってしまうと兵力は低下してしまうし、農民が職人になってしまうと年貢が減少して戦費に影響を及ぼしてしまう…
そのような状況を防ぐための対策として、秀吉は身分統制令を行ったと言われているよ。
人掃令は1592年には豊臣秀次が、身分統制令を徹底させるために制定したんだ。
この人掃令では、武家奉公人、百姓、職人、町人における職業別の戸数、人数を確定するために全国的な戸口調査を行ったんだよ。
この人掃令の目的は、朝鮮出兵のための人員確保と確認だったそう。
身分統制令も人掃令もどちらも朝鮮出兵のための人員確保が目的だったため、内容は似たようなものになっているね。
この人掃令や身分統制令をきっかけに江戸時代の士農工商の身分制度の足掛かりができたとも言われているの。
【人掃令を制定した豊臣秀次とは?】
人掃令を制定した豊臣秀次は、天下人である豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男のことなんだ。
つまり、秀次にとって秀吉は叔父にあたるんだよ。
秀吉は子宝になかなか子宝に恵まれず、やっと誕生した豊臣鶴松は2歳の時に病気で亡くなってしまうんだ…
そのため、秀吉には後継者がいなかったの。
そこで秀吉は姉の子供である秀次を後継者として養子に迎えたんだよ。
1591年には秀吉の関白を引き継いだ秀次が天下人となったんだ。
この頃には秀吉は関白の職を退いていたものの、1593年に57歳の秀吉に待望の息子・豊臣秀頼が誕生するんだよ。
秀頼の誕生によって、秀吉は秀頼を後継者にしたいと考えるようになったんだ。
秀次の存在が邪魔になり、謀反の疑いをかけられた秀次は1595年に切腹を命じられ、28歳という若さでこの世を去ったよ。
秀次が天下人となったのはほんの僅かな間だったから、その存在はあまり目立たず、人掃令は秀次が制定したと知っている人も少ないかもしれないね。
【身分統制令を行ったことによって兵農分離が確立した】
兵農分離とは武士と農民の身分の区別をはっきりと分けること。
この兵農分離が確立したのは、身分統制令や刀狩令などを発令したからなんだ。
身分統制令で、農民は武士になれないように、武士は農民になれないようにしたことによって農民は農民として生きる、武士は武士として生きるということが当たり前になったの。
また、刀狩令で農民から武器を没収したことで、農民らによる一揆や反乱が起こらないようにし、農民を農業に専念させることに成功したんだ。
つまり、兵農分離を進めるために、秀吉が行った政策の1つが身分統制令になるんだよ。