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本能寺の変ではいったい何が起こった?!その内容を徹底解説その2~本能寺の変・当日~

燃える本能寺で戦う信長(月岡芳年作)

 

前回は本能寺の変が起こる前の時系列をまとめたよね。

 

 

今回は、本能寺の変当日に何が起こったのか?についてそれぞれの登場人物ごとにまとめてみよう。

 

 

【天正10年(1582年)6月2日 早朝:本能寺の変】

 

みんなが寝静まっている6月2日午前4時頃には、光秀は本能寺を完全に包囲したんだ。

この時に、光秀は勝利のゲンをかつぐために「破軍星(北斗七星)」を背にして少し迂回しながら進軍したとも言われているよ。

本能寺を包囲した明智軍は、ついに鉄砲を討ち放ち、四方から一斉になだれ込み攻撃をしかけるんだ。
この時のそれぞれの行動をまとめてみよう。

 

燃える本能寺で戦う信長(月岡芳年作)from wikipedia

 

 

<織田信長>

外の物音で目を覚ました信長は、最初は家臣たちのケンカだと思ったそう。

しかしすぐに騒動に気づき、世話人である森蘭丸に「これは謀反か?如何なる者の企てぞ」と聞いたんだ。
すると蘭丸は「明智が者と見え申し候」と答えると、信長は「是非に及ばず」と一言答えたと言われているよ。

 

信長は弓を持ち応戦し、数本の矢を撃つものの、そこで弓が折れてしまうんだ。
そのため、槍に持ち替えて敵を突き伏せて戦うものの、槍傷と鉄砲の銃撃を受けてしまうの。

 

信長は女房衆に「女はくるしからず、急罷出よ」と逃げるように指示。
信長は応戦を断念して、奥の部屋に入り、蘭丸に本能寺に火を放つように命令したんだ。

 

レモン姫
レモン姫
信長様、ジェントルメンやわ〜

 

信長自身は殿中の奥深くにこもり、内側から納戸を締めて切腹したと言われているよ。
「信長公記」によると、討ち入りが終わったのは午前8時(辰の刻)前だったそう。

 

将軍レモン
将軍レモン
なんか諦め良すぎな感じに思うんだよなー

 

<明智光秀>

本能寺討ち入りの指揮を取っていた明智光秀は、本能寺の炎上を確認。
その後、織田信長の遺体を探すものの、なぜか信長の遺体は最後まで見つからなかったんだ。

光秀は信長が脱出したのではないか?と不安になって焦燥。

 

その様子を見かねた斎藤利三が光秀を安心させるために「合掌して火の手の上がる建物奥に入っていくのを見ました」と伝え、光秀は重い腰を上げて織田信忠のいる二条城新造の攻撃に向かったと言われているよ。

 

正午ごろ、光秀は信忠と少数の兵がいる二条城を完全に包囲して襲撃。
さらに堺の町にいた徳川家康に追っ手を差し向けて、街道を封鎖したよ。

 

本能寺の変の戦闘が終わると、朝廷に使者を出して

・京都でこれ以上の戦闘を行わないこと
・朝廷や公家に危害を加えることはない

などの旨を伝えたんだ。

光秀は戦後処理をしながら、丹後に領地を持っていた盟友・細川藤孝や、大和国を支配していた大名・筒井順慶に協力を求めるように書状を送ったよ。

 

足軽レモン
足軽レモン
遺体が見つからないと、逃げたと思うよね〜

 

<織田信忠>

織田家の跡継ぎであった信長の長男・織田信忠は、本能寺の変が起こった際、京都の別のお寺に宿泊していたよ。
騒ぎを知った信忠はすぐに兵を集め、本能寺の救援に向かおうとするものの、本能寺はすでに炎上。

 

もう間に合わないと悟った信忠は、一緒にいた信長の弟・織田有楽斎に、自分の息子である三法師を預けて、京都から脱出するように命じたよ。
自らは京都にある二条城に入って防戦体制を取るんだ。

 

しかし1万3000もの兵を持っていた明智軍に対して、信忠の手勢は500名あまり、さらに信長の馬廻衆が1,000から1,500名ほどいたものの軍勢で及ばず、攻撃を受けてすぐに落城したよ。

信忠は、家臣である鎌田新介に「切腹するから縁の板を外して遺骸は床下に隠せ」と指示。
すぐに自刃し、鎌田は信忠の首を打ち落して、指示に従って遺体を隠したよ。

 

レモン姫
レモン姫
晒し首などは避けたかったんだろうかな。

 

【天正10年(1582年)6月2日 午後:本能寺の変の直後に何が起こった?】

 

早朝に起きた本能寺の変によって、信長が死亡。
京都は大騒動になるものの、戦闘が一部地域のみだったため、何が起こったのかを知っている人はほとんどいなかったそう。

 

<明智光秀>

信長の遺体はいくら探しても見つからず、捜索を諦めて昼頃には安土城方面へ向かったよ。
しかし遺体がないことから、「信長は逃げ延びたのでは?」という噂も広まってしまったんだ。

 

光秀軍は安土城への道の途中にある橋が、山岡景隆によって焼き落されてしまったため、川を渡れない状況になってしまうの。

そこで光秀は重臣・明智左馬助(秀満)に手勢を与えて安土城の制圧を命じ、橋の修復を開始したんだ。
琵琶湖南にある明智家の本城・坂本城に戻ると、各勢力に協力を要請するための書状を書き続けたよ。

 

忍レモン
忍レモン
書状を書き書きして、一刻も早く味方を集めなきゃ!!

 

 

<細川藤孝>

光秀の盟友であり、同じ信長の家臣であった細川藤孝は、本能寺の変が起こった際には軍勢を率いて秀吉軍の救援に向かっている最中だったよ。
藤孝は本能寺の変を知るとすぐに城へ帰還し、すぐに秀吉に報告。

藤孝の息子・細川忠興の正室である光秀の娘・ガラシャを幽閉し、「信長の喪に服す」と光秀に伝え、手紙に応えることもなかったんだ。

光秀は盟友であり縁戚関係でもあった細川藤孝は味方してくれると信じていたからこそ、細川藤孝の態度は大きな誤算となってしまうよ。

 

足軽レモン
足軽レモン
信長様ありきの心の細川藤孝なり。

 

<徳川家康>

徳川家康の配下で、京都に店を持つ商人であった茶屋四郎次郎が本能寺の変を目撃。

茶屋四郎次郎は店の金を持って、すぐに徳川家康に急変を告げにいったんだ。

 

その話を聞いた家康は驚き、すぐに脱出を考えるものの、明智の兵によって街道は塞がれてしまっていたの。
この時、家康は「近くの寺で自害しよう」と言い出し、お供の本多忠勝に一喝されたと言われているよ。

家康はその後、お供の武将たちと協議して、伊賀山中を抜けて脱出することを決めたんだ。

 

足軽レモン
足軽レモン
この後、まさか天下人となるとはね、自害せずに良かったよね〜

次回は本能寺の変の翌日以降を見てみるよ!

 

足軽レモン
足軽レモン
みんな大忙しの1日だったよー
レモン姫
レモン姫
バタバタでございましたわ。