本能寺の変ではいったい何が起こった?!その内容を徹底解説その2~本能寺の変・当日~
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2021年2月17日
本能寺の変が起こった後、どのようなことが起こったのかな?
ここでは本能寺の変が起こった翌日以降の流れについて分かりやすくまとめてみるね。
目次
【本能寺の変の翌日:徳川家康の伊賀超え】
徳川家康は少数のお供と堺の町を見物していた時に、本能寺の変が起こったんだ。
天正10年(1582年)6月3日、本能寺の変の翌日、明智光秀の追っ手によって孤立してしまう家康は、伊賀の山中を抜けて本国・三河に帰ることを決定。
堺の会合衆・油屋常琢にかくまってもらいながら、配下である京都の商人・ 茶屋四郎次郎が先行して伊賀に向かい、ルート上の村々に金貨をばらまいて協力を要請したんだ。
さらに家康のお供であった伊賀の上忍・ 服部半蔵は、伊賀の地にいる伊賀忍者や甲賀忍者に協力を依頼。
家康一行も伊賀に出発し、光秀軍の監視を避けながら、土民の落ち武者狩りを追い払い、三河方面へ向かったんだ。
途中、徳川家康は協力要請に応じてくれた甲賀の頭領・多羅尾光俊の屋敷に一泊して、伊賀・甲賀の忍者300人に守られながら伊勢湾を出たよ。
そこから船を使って、海から三河へ上陸したんだ。
光秀としては徳川家康を取り逃がす結果となってしまったよ。
【本能寺の変の2日後:羽柴秀吉による中国大返し】
本能寺の変が起きた時、羽柴秀吉は、信長の命を受けて中国地方で毛利家の城を包囲していたよ。
秀吉が本能寺の変の知らせを聞いたのは、本能寺の変が起こった翌日、6月3日のことだったんだ。
秀吉は、驚きのあまり狼狽したと言われているの。
しかし、秀吉の軍師である黒田官兵衛から「これぞ天下を取る好機」と進言し、困惑していた秀吉を一喝したと言われているよ。
秀吉はすぐに家臣たちと協議し、一刻も早く主君・織田信長のかたき討ちを果たすべきだと決定。
本能寺の変については隠したまま、対戦仲の毛利家へ講和の使者を出したよ。
6月3日の深夜に、毛利家の外交僧・安国寺恵瓊を呼び出し、和平に向けて準備を急ぐように催促。
天正10年(1582年)6月4日には、秀吉が水攻めで包囲していた備中高松城の城主・清水宗治が切腹。
これによって秀吉軍と毛利軍の和平が成立したんだ。
秀吉はすぐに陣を片付け、軍勢を反転させ大急ぎで京都へ向かったんだ。
6月7日には秀吉の拠点となっていた姫路城に到着していたそう。
秀吉のスピーディーな動きは当時としてはあり得ない速さであったと言われているの。
通常であれば1週間程度かかる行程を2日程度でやってのけたんだよ。
どれほど秀吉が急いでいたのかがよく分かるよね。
結果として、秀吉軍のスピードが、光秀の計画を大きく狂わせることになるんだ。
姫路城に戻ってきた秀吉は、ニセ情報の手紙を各地に送ったんだ。
その内容は「織田信長は本能寺を脱出して、現在も生存している」という内容だったの。
このニセの手紙で、他の武将が明智光秀を支持するのを妨害したんだよ。
実際、織田信長は遺体は見つかっていなかったため、「信長は逃げ延びている」という噂が広まり、各地の武将たちも秀吉のニセ情報を信じる者も多かったそう。
一方、秀吉軍と和平を結んだ毛利軍は、講和した後で本能寺の変を知ったため、内緒にしていた秀吉に対して講和を破棄して秀吉を追撃するべきだと意見が出るの。
しかし、秀吉と交渉を行った外交僧・安国寺恵瓊と、毛利家重臣・小早川隆景がこの追撃に反対。
毛利家は秀吉と友好関係を結ぶべきだという意見が通り、秀吉側の勢力となるんだ。
【〜光秀の三日天下~】
本能寺の変が起こって数日後、光秀はたった三日だけ天下を取ることができたんだ。
ここでは本能寺の変の後、光秀が三日天下を取るまでの流れをまとめてみよう。
【本能寺の変から3日後:京都周辺を掌握した光秀】
天正10年(1582年)6月5日、本能寺の変から2~3日経過し、各地で「明智光秀の謀反によって織田信長が討たれた」という情報が流れるようになるんだ。
これによって、事件当日よりもさらに大きな混乱が各地に波及していくよ。
次にそれぞれの人物の行動をまとめてみよう。
<明智光秀>
明智光秀は天正10年(1582年)6月5日、ようやく織田信長の居城であった安土城に入るよ。
信長の急死によって安土城を守る者はおらず、安土城に残されていた信長の親族たちも蒲生賢秀によって別の場所へ避難させられていたんだ。
そのため、光秀が安土城に入った時には、すでに光秀の重臣である明智左馬助(秀満)が占拠していたよ。
安土城に入った光秀は、城にあった金銀財宝を配下たちへ分け与えて、京都周辺の民衆には税金免除などのお触れを出し、配下や民衆の支持を得ようとしたんだ。
朝廷や公家、旧幕府勢力との交渉や連絡に関しても密接にしていて、信長死後の権力掌握に努めたよ。
さらに配下の武将たちには軍勢を率いされて、近江国を制圧していくんだ。
<筒井順慶>
光秀からの協力要請を受けていた筒井順慶は、光秀に恩義があったため、支援のために出陣を開始。
しかしその道中、筒井順慶のもとに、羽柴秀吉から「信長は生きている」という内容と、協力を要請する書状が届いたの。
これを読んだ筒井順慶は、状況を確認するために進軍を停止して、洞ヶ峠で事態の推移を見守ることにしたんだ。
<織田信孝>
信長の三男で、跡継ぎ候補の1人であった織田信孝は、本能寺の変が起こった当時、四国の大名・長宗我部家への侵攻の総大将となる予定で、大坂で四国に向かう準備をしていたよ。
本能寺の変の知らせを聞いた信孝とその重臣・丹羽長秀は、四国攻めに加わる予定であった信長の弟・織田信行の息子である織田信澄を、光秀に荷担する恐れがあるとして殺害したの。
実のところ、信澄が光秀に荷担する気があったかどうかは分かっておらず、信澄が光秀の娘を妻にしていたことから裏切られると考えたために殺害したと見られているよ。
信澄が光秀に荷担するという情報は誤情報であったとも言われているんだ。
信孝は信長の仇討ちをしようと試みるものの、兵力が少ないため無理と判断し、秀吉軍と合流することにしたよ。
<柴田勝家>
光秀と同じく信長の重臣の1人であった柴田勝家。
本能寺の変が起こった時、柴田勝家は、北陸地方で上杉家の城を攻略中で6月3日に上杉家の城・魚津城を陥落させたんだ。
しかしその翌日に本能寺の変の連絡が届き、6月5日は退去を決定して京都方面へ戻ってくるよ。
そのため、落としたばかりの魚津城は再び上杉軍の直江兼続に奪還されてしまうんだ。
【本能寺の変から5日後:三日天下となる光秀】
本能寺の変から5日後の天正10年(1582年)6月7日、この日から明智光秀は安土城や京都、さらには本拠地である坂本城を忙しく移動しながら、政務を行っていくよ。
光秀が京都で政務を行ったのは3日だけだったため、光秀の天下は「三日天下」と呼ばれているんだ。
このわずか三日天下の間に、光秀は寺院への金銀の献上、禁制、税金免除の告知、朝廷工作など様々な政務を積極的に行ったの。
また光秀はこの期間に朝廷から、「正一位・征夷大将軍」に任ぜられたという説もあるの。
「正一位・征夷大将軍」とは最も権威のある最上位の官位であったんだよ。
光秀が政務にあたっている中で、秀吉の軍勢は中国地方からものすごい速さで戻ってきて「姫路城」へ到着。
秀吉は各地の武将に、協力要請を依頼する書状を出しており、これによって各地の武将が次々の秀吉の元へ集結したんだ。
さらに秀吉は姫路城にあった金銀を将兵たちに惜しむことなくばらまき、より結束を強くするように促したよ。
姫路城へ到着した秀吉軍だったけれど、兵士たちが完全に合流していなくて休憩も必要だったから、一息休みながら決戦の準備を進めたんだ。
一方、光秀も味方を増やそうと紛争するものの、細川藤孝や筒井順慶らからもよい返事が来なかったの。