本能寺の変ではいったい何が起こった?!その内容を徹底解説その3~本能寺の変・翌日以降の家康、秀吉の動き~
2021年2月16日本能寺の変で先鋒を務めた明智光秀が最も信頼していた重臣・明智左馬助とは?
2021年2月17日本能寺の変を起こした光秀は、山崎の戦いによって最期を迎えてしまうよね。
ここでは光秀にとって最後の戦いとなる「山崎の戦い」についてまとめてみよう。
目次
【本能寺の変から8日:光秀軍、秀吉軍それぞれ山崎の戦いの地「天王山」へ】
明智光秀は、京都の入り口にある勝竜寺城と淀城の守りを固めながら、京都の南にある男山に布陣。
この男山の近くには洞ヶ峠があり、洞ヶ峠で推移を見守っていた筒井順慶の軍勢に味方になるように促そうとしていたんだ。
しかし結局最後まで、筒井順慶は光秀の味方になることはなかったよ。
一方、羽柴秀吉の軍勢は姫路城へ到着後2日ほど休息。
3日後には大坂方面へ進軍を始めたよ。
大坂周辺の武将に協力を要請して、池田恒興・中川清秀・高山右近などの織田家の有力武将と合流。
その兵力をより大きなものにしていったんだ。
さらに、織田信長の三男・織田信孝と重臣・丹波長秀も軍勢に加わり、信長の敵討ちの大義名分を得ることになるよ。
天正10年(1582年)6月12日、秀吉は京都の西にある勝竜寺城に向かって進軍。
これを受けて光秀は男山の軍勢を撤収させて、秀吉軍を迎え撃つ体制を取るよ。
秀吉の軍勢は京都の近くまで進軍してきたため、光秀は京都の西にある天王山の山上に陣を張ろうとするものの、この天王山は秀吉軍の武将・中川清秀と中村一氏によっておさえられてしまっていたんだ。
そこで光秀は仕方なく近くの勝竜寺城に入り軍勢を整え、天王山の麓・山崎に布陣することにしたよ。
【本能寺の変から11日:ついに山崎の戦いがスタート】
天正10年(1582年)6月13日、山崎に布陣した光秀軍。
秀吉軍本隊も天王山に到着し布陣を開始し、ついに光秀軍VS秀吉軍による「山崎の戦い」が始まるんだ。
山崎の合戦は別名「天王山の戦い」とも言われていて、頂上決戦を意味する「天王山」の語源は、この「天王山の戦い」から来ているんだよ。
明智光秀軍の兵力は16,000人。それに対して羽柴秀吉軍は35,000~40,000人ほどの兵力があったんだ。
この時点ですでに2倍の兵力差があり、光秀軍は不利な状況にあったよ。
光秀軍は天王山と淀川にはさまれた狭い場所を抜けた先に部隊を扇状に布陣。
一方の秀吉軍は、天王山とその麓に部隊を配置したんだ。
秀吉軍の高山右近、中川清秀は川を渡り進軍し、それに対抗するために光秀軍の斎藤利三と、将軍家家臣であった津田信春・伊勢貞興が迎撃したよ。
兵力の差があったにも関わらず、序盤は光秀軍が優勢になるんだ。
そこで秀吉軍は控えの堀秀政部隊を救援に向かわせるの。
それに対して光秀は、家臣・並河易家の部隊を迂回させて、敵の側面を攻撃。
しかし天王山に布陣していた羽柴秀長の部隊に気づかれ、側面攻撃は失敗してしまうんだ。
秀吉軍の池田恒興の部隊は戦場を迂回して、光秀軍前面の津田信春・伊勢貞興部隊を側面から攻撃し成功。
これによって、秀吉軍前面の中川清秀・高山右近部隊も押し返し、光秀軍の斎藤利三部隊は苦戦を強いられることになるよ。
さらに迂回していた秀吉軍の織田信孝・丹波長秀らの大部隊が明智軍を横から総攻撃。
これによって光秀軍は総崩れとなり、戦いは決着したんだ。
山崎の戦いは開戦からわずか2時間という短時間で終結することになってしまうよ。
光秀軍の敗戦が決定的となり、光秀軍の武将である御牧景重は、光秀に「撤退して再起をはかりましょう」と進言。
これを受けて光秀は戦場から逃走し、御牧景重は軍勢の殿となり討ち死にしてしまうんだ。
【逃走途中に落命してしまう明智光秀】
光秀は山崎の戦いの戦場から逃走するものの、逃げ延びることはできなかったんだ。
逃亡中、土民の落ち武者狩りに襲われてしまった光秀は、竹槍で突かれて落命してしまうの。
光秀が亡くなったのは、本能寺の変からわずか11日後のこと。
光秀による天下はあっという間に終わってしまうんだ。
光秀の死後、危険な道中が続くため、光秀の家臣・溝尾茂朝は首を城まで持って帰ることはできないと判断し、襲われた付近の藪の中に遺体を埋めたと言われているよ。
このため、明智光秀のものだと分かる遺体は最後まで見つかっておらず、光秀生存説などもあるんだよ。
「麒麟がくる」の最終回でも、光秀が生きているかのような演出があったよね。
家臣・溝尾茂朝と安土城を守っていた明智左馬助(秀満)は居城・坂本城に帰還し、城に火を放つと光秀の家族とともに自害したんだ。
これによって光秀の一族は滅亡してしまい、天下は豊臣秀吉のものとなっていくんだよ。