明智光秀の盟友・細川藤孝はなぜ本能寺の変を起こした光秀の味方をしなかった?その理由を徹底解説
2021年2月16日本能寺の変ではいったい何が起こった?!その内容を徹底解説その2~本能寺の変・当日~
2021年2月16日
「麒麟がくる」最終回ではついに本能寺の変が描かれたね。
ここでは本能寺の変について詳しく解説していこう。
目次
【本能寺の変まであと5日:光秀は出陣準備】
天正10年(1582年)5月26日、中国地方では羽柴秀吉が織田家と敵対している毛利氏と交戦中だったんだ。
秀吉は備中高松城を包囲し、城の周囲を水没させる水攻めを行っていたの。
しかし総勢4~5万ともいわれる毛利家の主力部隊が備中高松城方面に出陣してしまうんだ。
秀吉の軍は約2万ほどで、味方となった宇喜多軍1万を加えても苦戦は必至。
そこで秀吉は、主君・信長に救援要請の書状を出したんだ。
その時、明智光秀は徳川家康の接待役を行っていたものの、信長から接待役を解雇され秀吉の援軍を命じられるの。
そこで、光秀は居城・坂本城へ戻り、中国地方への出陣準備をすすめたよ。
実はこの時、明智光秀は信長に自分の持っている全ての領地(丹波国など)をすべて取り上げられてしまい、これから攻める毛利家の領地を代わりに与えられたと言われているんだ。
これを「国替え」というんだけど、光秀にとっては死活問題だよね。
この国替えに関しては事実ではないという説もあるため、本当のところは分からないけれど、これが事実だとすれば光秀にとっては本能寺の変を起こす1つの理由になるかもしれないね。
家康の接待を終えてから、丹波の城に入り出陣準備を始めるまでには10日間ほどあるんだけど、その間、光秀が何をしていたのかについては分かっていないんだ。
出陣準備を始めた翌日には、光秀は丹波の「愛宕神社」に参拝し、何度もおみくじを引いたと伝えられているよ。
【本能寺の変まであと3日:連歌会「愛宕百韻」を開催】
天正10年(1582年)5月26日に坂本城を出発した光秀は、別の居城である丹波亀山城に移ったよ。
そして天正10年(1582年)5月28日に愛宕にあるお寺・威徳院西坊で連歌の会を催したんだ。
この連歌の会を「愛宕百韻」といい、この愛宕百韻で光秀が一番目に詠んだ句が「ときは今 天が下しる 五月哉」なの。
この句は光秀が謀反の決意を詠んでいたのでは?と推測することもできるんだよ。
「ときは今」は「土岐は今」、「天が下しる」は「天が下治る」と詠むと、「天下を治める」という意味になるの。
つまり明智光秀が謀反を起こして、天下を治めようとしているのを句に詠んだとも解釈できるんだ。
もしそれが本当であれば、この時点で光秀は本能寺襲撃の決意を固めていたことになるね。
本能寺の変が起こった後、この愛宕百韻に参加していた人は全員、謀反の共謀容疑で取り調べを受けたそう。
その当時から、この句に関しては議論の的になっていたんだよ。
【本能寺の変まであと2日:信長が本能寺へ】
信長は秀吉からの救援要請に応じるために、安土城で中国地方に軍勢を派遣する準備を進めていたの。
そして天正10年(1582年)5月29日の夕方、京都にあるお寺・本能寺に入ったよ。
この時、信長は本能寺に多くの名物茶器も運んでいて、大きな茶会を開催する予定だったと言われているんだ。
ちなみにこの茶会の開催を勧めたのは、堺の町の会合衆でもあり、かの有名な茶人・千利休だったそう。
徳川家康は安土城での接待の後、京都を観光中。
この日はお供の武将と、堺の町を見物に行き、茶人で堺会合衆の1人であった津田宗及の接待を受けたんだ。
【本能寺の変まであと1日:信長は本能寺で茶会を開く・光秀は深夜に軍勢を反転し京都へ向かう】
京都の本能寺の変に入った信長は朝廷の使いとしてやってきた勧修寺晴豊、甘露寺経元など公家や僧侶ら40名を招き、茶会を開催。
持ってきた茶器の披露をしていたと言われているよ。
名物びらきの茶事が終わるとそのまま酒宴となり、妙覚寺より信長の息子である信忠が来訪して、信長・信忠は久しぶりに親子で酒を飲み交わしたんだ。
深夜になり信忠が帰った後も、信長は本因坊算砂と鹿塩利賢の囲碁の対局を見て、就寝したそう。
一方、明智光秀は、6月1日午後4時頃には13,000人の兵を率いて丹波亀山城を出発。
出発前には、明智軍の重臣・斎藤利三、明智左馬介、藤田伝吾らと本能寺襲撃のための作戦を練ったと言われているよ。
この日の夜、行軍中の光秀は突然「敵は本能寺にあり!」と号令をかけ、軍勢を反転させて京都に向かって行軍。
この「敵は本能寺にあり!」という号令に関しては後世の創作という見方がつよいんだけど、有名なシーンだよね。
明智軍は京都に近づくと、軍勢を2手に空け、本能寺の包囲をスタート。
ただ明智軍の兵士や武将の多くは、軍勢を反転させ京都に向かっているのは織田信長に軍勢の確認をしてもらうためだと思っていたよう。
本能寺を包囲する命を受けた後も、まさか主君を討つとは思っておらず、討つ相手は徳川家康だと思っていた者が多かったとも言われているんだ。
【当時の本能寺は城塞のような城構えだった?】
本能寺の変が起こった当時、本能寺は現在とは異なる場所にあったんだ。
東西約120m、南北約120mという敷地に存在していたと言われていて、堀の幅は約2~4mで深さが約1mの堀、0.8mの石垣とその上の土居が周囲にあり、防御面に配慮が施された城塞のような城構えであったことが分かっているの。
次回は本能寺の変の当日について解説していくね。