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2021年2月8日
「麒麟がくる」第42話では、明智光秀が鞆の浦に追いやられた室町幕府将軍・足利義昭の元を訪れているよね。
足利義昭は足利家ゆかりの地でもある備後・鞆の浦(現在の広島県福山市)を拠点として、京都復帰を窺っていたんだ。
ここでは鞆の浦での義昭の動きについてまとめてみよう。
目次
【信長と対立した義昭は鞆の浦で幕府として権威を保っていた】
歴史の教科書では室町幕府の滅亡は元亀4年(1573年)とされているけれど、実は義昭は備後の鞆の浦で幕府の役職任命などを行っていたんだ。
織田信長と仲たがいして、備後の国に下向したのは天正4年(1576年)のこと。
小早川隆景庇護の下、伊勢氏・一色氏・細川氏など幕府の中枢を担った公達を伴って下向したんだよ。
現在の広島県福山市にある鞆の浦は、足利家にとって縁のある土地であり、尊氏が新田義貞追討の院宣を光厳上皇より受けた場所でもあったんだ。
鞆の浦で義昭は、幕府の役職任命などを行っており、幕府としての権威を保ち続けたの。
備後に下向した時点で室町幕府は滅亡したという考え方もあるんだけど、義昭は天正16年(1588年)まで征夷大将軍の職についていたという記録も残っているんだ。
そのことからも、鞆幕府は立派に機能していたと言われているよ。
【瀬戸内海の要衝であった鞆の浦】
鞆の浦と言えば、「崖の上のポニョ」のイメージとなった場所として脚光を浴びたよね。
鞆の浦は、南北朝時代から江戸時代、幕末まで歴史の舞台となった、歴史好きには人気のスポットなんだ。
瀬戸内海の要所であった鞆の浦は、足利時代には要所、要害としての役割を果たしているの。
義昭がこの地に下向した際には、鞆城があったとされているよ。
鞆城跡に行くと石垣を見ることができるんだ。
現在残っている遺構は、東側最高所にある約2,500平方メートルの本丸、本丸西側に接する約1,200平方メートルの二之丸の一部と石垣だよ。
また、鞆城には毛利輝元が義昭のために建てた櫓や、北部には三之丸があってそこに町奉行所が置かれていたそう。
【義昭が鞆城の後に過ごした場所とは?】
義昭は古代から栄えた港町である鞆の浦で1582年まで過ごし、その後、津之郷の御殿山へ移ったと言われているんだ。
津之郷は現在の広島県福山市にあるよ。
秀吉が四国平定後、九州平定と朝鮮半島への戦いを視野に入れ、毛利輝元に道路普請を命じるんだ。
毛利輝元は足利義昭と秀吉の対面を実現させるために、新山陽道を御殿山の麓を通って、三原へ抜けるように建設。
天正15年(1587年)3月に、義昭と秀吉は対面し、その際に講和が成立したんだよ。
義昭は親しい仲だった薩摩・島津氏と豊臣氏の戦いを極力避けるように努力し、九州征伐後に両者の講和の中継ぎをするなど秀吉の信頼を得たんだ。
【秀吉との講和が成立し、京都へ帰還】
足利義昭は秀吉との講和が成立し、天正15年(1587年)10月に、京都へ帰還したんだ。
この時に、それまで保持し続けていた将軍の位をやっと朝廷に返して、その代わりとして准三后の称号をもらっているの。
文禄元年(1592年)に秀吉が朝鮮出兵を断行すると、義昭は秀吉に従い、肥前名護屋に赴いたよ。
出立に際して、3500の兵を引き連れた義昭は久しぶりの晴れ舞台でたいそう機嫌がよく、凛々しく見えたと言われているんだ。
その後、秀吉に1万石を与えられ、慶長2年(1597年)に61歳で亡くなったよ。