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秀吉の播磨平定「三木合戦」の兵糧攻めは竹中半兵衛による策だった!

三木合戦

信長から播磨平定を命じられた秀吉はまずは上月城を攻めはじめたよね。

一度は落城した上月城だったけれど、毛利軍に包囲され、上月城に籠城していた尼子氏は滅亡してしまうんだ。
この時、秀吉軍が助けに行けなかったのは、三木城を攻めていたからなんだよ。

ここでは三木城攻めについてまとめてみよう。

 

将軍レモン
将軍レモン
尼子氏が滅亡しちゃったんだよ。秀吉様が来てくれたら。。。

 

【三木城攻めは2年弱にわたる長期戦になった】

 

 

上月城の救援に向かおうとしていた秀吉だったけれど、急な事態が起こってしまうの。
播磨の有力守護大名であった別所長治らを中心に播磨の武将が反旗を翻して、三木城に立てこもってしまうんだ。

そのため秀吉は上月城の救援を諦め、三木城の掃討に向かうことに。

三木城は、兵庫県神戸市の北西20㎞、明石市の北19㎞の地にあり、京都と有馬を結ぶ湯山街道の要所にあったよ。
この三木城の籠城決戦は、1578年~2年弱に渡って行われたんだ。

 

 

【秀吉が得意とする兵糧攻めによる戦い】

 

秀吉は激しい攻防戦になって兵力が消耗することを避けたかったから、播磨をまとめる別所氏との直接対決を得意の兵糧攻めで行うことにしたの。

三木城には東播磨など約7,500人もの人が籠城していたんだ。
この中には別所氏が同調した国人の家族や浄土真宗のも門徒も含まれていたそう。
これだけ多くの人が立て籠もっていたから、多くの兵糧が必要だよね。

そこで三木城では、毛利氏や英賀城の三木通秋などに兵糧を海上輸送してもらっていたんだ。
さらに、海沿いにあった高砂城や魚住城で兵糧を陸揚げして、加古川や山間道を通って兵糧を運びこんだの。

 

この兵糧の運搬で重要になるのが道中にある陣屋や砦、出城などの支城の存在だよ。
この支城の存在に気づいた秀吉は、三木城を包囲して、支城攻略を行ったんだ。
こうして三木城への補給路である支城を次々と落城させていくよ。

 

将軍レモン
将軍レモン
周りの拠点からどんどん落としていったんだね!

ついに三木城は周囲から孤立することになり始まるの。
兵糧が少なくなってきた城内では、兵士たちがどんどん減っていったんだ。
米が尽きて兵馬が食べられ、馬もいなくなると生えている草木を食べて飢えをしのんだそう。

さらに餓死した者の肉をむさぼっていたともされており、いかに悲惨な状況であったかがよくわかるよね。

結局、三木城は、実際に城を攻めるまでもなく、城内の兵の命を救うことを条件に、別所長治一族が切腹して落城したんだよ。
この三木合戦は22ヶ月にもおよび戦国時代で最も長期に渡った戦いになったんだ。

 

レモン姫
レモン姫
飢餓ほど悲惨なものはないよね!!

 

【兵糧攻めを考えた竹中半兵衛】

 

三木城攻めを行っていた際、秀吉の下には竹中半兵衛と黒田官兵衛という2人の軍師がいたんだよ。

しかし黒田官兵衛は、有信長に反旗を翻した岡城主の荒木村重を説得するために、有岡城を尋ねた際に捕らえられてしまい、地下牢に閉じ込められてしまうんだ。

一方、竹中半兵衛はこの頃、結核を患っていて、戦場と病床を行き来する日々を送っていたそう。

そんな中で、竹中半兵衛は策をめぐらせて「兵糧攻め」を考えたんだ。
この兵糧攻めの際には「羽柴軍は別所長治に味方したものは兵士だろうと百姓だろうと構わずにみな殺しにする」という噂をわざと広めて、百姓たちをも三木城内に駆け込ませたんだ。

こうすることで城内にいる人数が増え、兵糧攻めがより効果的になったと言われているよ。
兵糧の補給路は秀吉軍によってすべて封鎖されて、毛利方からの兵糧補給も期待できない状態になってしまうんだ。

さらに秀吉軍は、周辺の米商人から通常よりも高い金額を提示して米を買い占めたの。
これによって三木城内には米が減っていき、補給もできなくなってしまったんだ。

戦わずにして勝つことができる「兵糧攻め」という戦法を主導していたのが、竹中半兵衛なんだよ。

 

足軽レモン
足軽レモン
三木合戦は後世に残る悲惨な戦わない戦の一つだね。