豊臣秀吉の播磨平定「第一次上月城の戦い」とは?
2021年1月27日大般若長光 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年1月28日信長は秀吉を中国地方の覇者として君臨していた毛利氏討伐の総司令官として、播磨平定、中国攻略の総大将と任命したよね。
播磨平定を目指す秀吉は、播磨における毛利家の前線拠点となっていた上月城の攻略に成功。
播磨の平定はうまくいったと思っていたのも束の間、思わぬ出来事によって上月城は危機的状況に陥ってしまうんだ。
ここでは秀吉の播磨平定の続きをまとめてみよう。
目次
【上月城攻略後はどうなった?】
上月城を落城させた秀吉は、その城に出雲の麒麟児と呼ばれた勇将・山中鹿之助や尼子勝久らを守将として配置したよ。
しかし、この頃の播磨地方は毛利氏の影響力が非常に強かったんだ。
そのため、三木の別所氏、御着の小寺氏、英賀の三木氏ら播磨の武将たちは、突然やってきた秀吉ら織田勢にひどく動揺したよ。
一方、秀吉は姫路の黒田官兵衛孝高を味方につけて、置塩城の赤松則房など諸将を従えるんだ。
ここまでは播磨平定は順調に進んでいたよ。
【反旗を翻した別所氏】
播磨の諸将らを従えた秀吉だったけど、その中には毛利氏に援助を頼んで秀吉ら織田軍に従わなかった者もいたんだ。
さらに播磨で最も勢力が強かった三木城主の別所長治が毛利氏と通じており、織田方に反旗をひるがえすことに。
すると東播磨の武将のほとんどが別所氏の味方につくことになってしまうの。
【別所長治はなぜ織田家に敵対したの?】
1度は秀吉に味方することになった別所長治は播磨の有力な国人だったんだ。
別所長治はその当時まだ若かったため、2人の叔父が長治の補佐をしていたの。
1人は、秀吉や織田家に早い段階から心を寄せていた別所重棟で、もう1人は秀吉に不快感を抱き、織田家にも不信感を持っていた別所吉親。
この2人の叔父は非常に仲が悪く、何かにつけて意見の対立が起こっていたそう。
織田家に不信感を抱いていた吉親は長治を口説き落とし、別所氏の諸将や家老が集まる席で、織田家への不信感や秀吉の驕った態度を指摘して説得。
別所氏は毛利家と同盟を結び、織田家へ敵対することを決めたんだ。
これを聞いた秀吉は、秀吉よりであった別所重棟を別所氏の本拠であった三木城へ派遣して、長治の説得に赴かせたそう。
しかし長治は、重棟の言葉に耳を貸すことはなかったんだ。
【毛利家の反撃がスタート】
毛利家当主である毛利輝元を支えていた吉川元春と小早川隆景は、別所氏が反織田の旗を掲げたことを知り、大いに喜んだそう。
さらに2人はこのチャンスをみすみす逃すわけにはいかないと、4万もの大軍を率いて秀吉に奪われた上月城への進軍を開始したんだ。
元春、隆景の大軍は、上月城へ着くとすぐに包囲陣を敷き、城から誰も出られない状態を作り上げたの。
この時、秀吉は書写山の十地坊を本営にして三木城攻略に掛かりきりであったために、主君・信長に援軍を要請。
信長は急いで播磨へ援軍を差し向けたんだ。
ちなみにこの時、援軍として差し向けた諸将はかなり豪華なメンバーだったの。
信長の跡を継いで織田家当主となっていた信長の子・信忠や明智光秀、荒木村重、滝川一益、丹波長秀など織田家のオールスターとも言えるメンバーが集結したんだよ。
このメンバーを見ても分かる通り、信長がどれだけ播磨平定に本気であったかがよく分かるよね。
これほど豪華な軍勢が出そろう戦はなかなかないんだよ。
【播磨平定を目指し、織田軍は全力を注ぐ】
織田軍からの援軍を得た秀吉は、秀忠に対して「上月城に援軍をお願いしたい」と依頼。
それに対して信忠は「父上から播磨平定を最優先にしろと言われている」とその申し出を拒否したんだ。
しかし秀吉は上月城にいる尼子氏らを見捨てることができず、自ら信長の元へ行き、上月城へ援軍を送りたいと直訴したよ。
信長は秀吉の言葉を聞いて「播磨平定を直ちに行え」と激怒されてしまうの。
結局、信忠率いる織田援軍は、上月城への援軍は贈らずに、播磨三木城の支城攻略に全力を注ぐことになるんだ。
その頃、秀吉は自ら軍勢を率いて、上月城近辺にある高倉山に陣取って毛利家にプレッシャーをかけるものの、秀吉率いる軍勢が少なすぎるため、毛利氏には響かなかったよ。
【見捨てられた上月城は落城】
上月城を守っていた尼子勝久や山中鹿之助は秀吉から織田軍が助けに来ないことを知るんだ。
秀吉からは、「織田軍は上月城救援に行くことができない、毛利家に降伏して再起を図ってほしい」と伝えられるの。
しかし、彼らは毛利家へ降伏することを拒否し、徹底抗戦の構えを崩さなかったんだ。
孤立無援の状態で、毛利家の包囲が数ヶ月経過し、城内からは飢餓する者が出始めてしまうの。
尼子勝久はこのままでは全滅してしまうと考え、生き残っている家臣を救うために毛利氏と和睦することを決めたよ。
すると毛利家は「尼子勝久ら尼子一族が自害すれば、城内の兵士たちを助けてやる」と和睦の条件を突き付けてきたんだ。
尼子勝久はこの条件をのんで、和睦に応じることを決断。
尼子勝久や息子たちは全員自害して、上月城は陥落したよ。
一方、出雲の麒麟児と言われた山中鹿之助は毛利家の捕虜となって護送されることに…。
しかし、護送される途中で、毛利家によって殺害されてしまうんだ。