織田・徳川連合軍VS武田勝頼軍の長篠・設楽原の戦いとは? まとめて解説!
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2021年1月24日
「麒麟がくる」第39話では織田・徳川連合軍が武田軍を討ち勝った長篠・設楽原の戦いについて描かれているよね。
では長篠・設楽原の戦い後、織田軍や武田軍はどうなったのかな?
ここでは長篠・設楽原の戦いのその後と、長篠・設楽原の戦いについてのエピソードをまとめてみよう。
目次
【長篠・設楽原の戦いのその後】
長篠・設楽原の戦いで敗れた武田家はその後、勢力がどんどんと衰えることに…。
長篠・設楽原の戦いから7年後の1582年には、信長・家康・北条氏政らが武田氏を滅ぼすために武田征伐を開始したんだ。
追い詰められてしまった武田勝頼は、武田家の家臣であった小山田信茂の岩殿山城に助けを求めて逃げ込もうとするものの、小田山に裏切られてしまうの。
武田家の滅亡と自らの死を覚悟した勝頼は、武田家のゆかりの地である天目山で自ら命を絶ったよ。
【長篠・設楽原の戦いで戦士した武将とは?】
武田軍は長篠・設楽原の戦いで数多くの死傷者を出したんだ。
特に武田四天王と呼ばれた実力者の4人のうち3人が、この戦いで討ち死にしてしまうの。
長篠・設楽原の戦いで亡くなった武田四天王をまとめてみよう。
<馬場信春>
馬場信春は武田震源時代から武田氏に仕えている家臣の1人。
三方ケ原の戦いにおいても、徳川軍を浜松城まで追いつめた功績があったよ。
しかし、勝頼の時代になり、馬場信春は疎まれ、信長が設楽原に到着した際に撤退を進言するものの受け入れられなかったんだ。
勝頼が設楽原の決戦で退去したのを見届けた後に軍の最後尾となるしんがり役を務めて戦士したよ。
<山県正景>
山県正景は武田二十四将の1人で、武田四天王の1人でもあったんだ。
この山県正景も信玄時代から仕えている重臣で、信玄の遺言であった「わしの死を3年間は隠せ」と直接言われた1人であったと伝えられているよ。
武田軍最強の赤備え部隊を率いていた山県正景だったけれど、勝頼が当主になると疎まれ馬場信春とともに撤退を進言するものの受け入れられなかったの。
設楽原の戦いにおいては山県正景は左翼の中心部将で、決戦終結直前に戦死したと言われているよ。
<内藤昌豊>
内藤昌豊は武略に秀でた武田軍の副将格だよ。
設楽原の決戦では山県正景とともに左翼の中心武将として活躍。
勝頼自ら退去する際に踏みとどまり、徳川の配下である朝比奈泰勝に討ち取られてしまうんだ。
【長篠・設楽原の戦いのエピソードまとめ】
長篠・設楽原の戦いに関しては様々なエピソードや言い伝えが残っているよ。
ここではそれらをまとめてみよう。
<織田軍の鉄砲は3,000もなかった?>
長篠・設楽原の戦いでは織田軍が鉄砲を使った襲撃を行ったことで有名だよね。
この時織田軍は1,000~3,000もの鉄砲を用意していたと言われているの。
この内容が書かれているのは長篠・設楽原の戦いが終わって約25年後のことで、江戸時代初期に小瀬甫庵の著書「信長記」に書かれているんだ。
長篠・設楽原の戦いが起こった同時期に書かれたものではないため、信憑性が乏しいと言われているよ。
また戦の舞台となった長篠の設楽原の発掘調査では、鉄砲の弾がほとんど出土していないんだ。
そのことからも、本当に3,000丁もの鉄砲が使われていたのか?は疑問となっているよ。
<武田軍の騎馬部隊はポニーだった?>
「武田の赤備え」と呼ばれた武田軍の騎馬隊だけど、実際に馬に乗って戦う騎兵は武田軍の中でも全体の1割程度だったと言われているんだ。
そのため騎馬隊と呼ばれるほどの規模はなかったのでは?と考えられているよ。
さらに戦国時代の馬と言えば私たちが考えるサラブレッド種のような馬ではなく120㎝ほどの在来種の馬だったの。
今でいうところのポニーくらいの大きさだよ。
ただ武田の領地であった甲斐は、黒駒と呼ばれる名馬と評された馬の産地として有名だったんだ。
騎兵も十分に訓練を行っていて、戦国最強という力量には間違いなかったと言われているよ。
<鉄砲三段撃ちは行われていない?>
長篠・設楽原の戦いでは、信長が鉄砲三段撃ちを行ったと伝えられているんだ。
鉄砲三段撃ちは「信長公記」にあった記述であり、明治期の陸軍によって教科書に取り入れられたことによって通説になったよ。
しかし、実はこの鉄砲三段撃ちが作り話であったのでは?という説が近年有力視されてきているんだ。
鉄砲三段撃ちは鉄砲3,000丁を3,000人が持って、1,000人1組で3組口語に一斉射撃を行ったと言われているの。
先込め式の火縄銃を発射してから次の銃弾を発射するまでの時間は約30秒かかるんだ。
これを1,000人が同じ時間で次弾装填するのは不可能であり、全員そろって撃つというのは効率が悪いと言えるよね。
さらに火縄銃は撃ち続けると銃身に火薬のガスが溜まるんだ。
この状態で撃ってしまうと銃弾の飛距離が短くなって、火薬のガスが周辺に飛び散ることに…。
そのガスが周りの人にかかると大やけどをしてしまうよ。
それを防ぐために銃身を掃除して火薬を除去してから撃つ必要があったんだ。
それを考えると、鉄砲三段撃ちを3,000人で行うのは無理があると考えられるね。
「信長公記」によると指揮官5人によって3,000人の鉄砲隊を指揮していたそう。
しかし決戦地である設楽原は山が非常に多く、他の軍や離れたところにいるであろう指揮官は見えにくい立地となっているんだ。
指揮官の動作が見えにくく、統一的な行動をとるのは難しいため鉄砲三段撃ちは不可能なのでは?と考えられているよ。
さらに長篠は丘陵地で周りの音が聞こえにくい場所でもあったの。
鉄砲は火縄銃の銃声も大きいため、指揮官の号令はかき消されてしまうよね。
1組1000人、3組で3,000人の鉄砲隊を5人の指揮官で率いるのは理論上不可能と言えるね。
考えれば考えるほど鉄砲三段撃ちは非常に効率の悪い戦法であることがよく分かるよ。
そのため実際には鉄砲三段撃ちは行われていないのでは?と言われているんだ。