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織田・徳川連合軍VS武田勝頼軍の長篠・設楽原の戦いとは? まとめて解説!

長篠合戦図屏風。日本、三河県(1575年6月28日)。 PD from wikipedia

 

麒麟がくる第39話では、光秀が丹波攻略に向かう一方で、織田信長が長篠・設楽原の戦いにおいて武田軍を次々と撃破したよね。
ここでは織田軍と武田軍が激突した長篠・設楽原の戦いについてまとめてみよう。

 

将軍レモン
将軍レモン
戦の話だぞぃ!!

 

『長篠合戦図屏風』の一部(徳川美術館蔵) PD from wikipedia

【長篠・設楽原の戦いとは?】

 

長篠・設楽原の戦いは織田・徳川連合軍と武田軍が激突したことで有名な戦の1つ。

戦場となったのは長篠城と長篠城の西側にあった設楽原の2か所で、長篠・設楽原一帯には現在でもその名残りが数多く残っているんだ。

天正3年(1575年)5月21日、三河国の長篠城を巡って織田信長・徳川家康の連合軍3万8,000の軍と武田信玄の息子・武田勝頼軍1万5,000軍が激突したよ。

 

この長篠・設楽原の戦いでは織田軍が「新戦法・鉄砲三段撃ち」を導入。
日本で初めて鉄砲が使われた戦なんだよ。

この戦いで織田信長は当時としては驚愕の3,000丁もの鉄砲を用意したと言われているの。
この鉄砲の威力によって、戦国最強と謳われた騎馬武者たちをつぎつぎになぎ倒していくんだ。

 

 

【長篠・設楽原の戦いが起こった原因とは?】

 

父・武田信玄の跡を継いで武田の当主となった武田勝頼は、信玄の遺言であった京への進軍を模索。
その道中にある家康の領地であったのが現在の愛知県にある三河国なんだ。
京へ進軍するにあたって、三河の領地はなんとしても抑えておきたいところであり、武田軍は何度も侵攻を起こしたよ。

 

1574年5月19日には父・信玄でも落とせなかった徳川方の高天神城の落城に成功。
その勢いのまま、さらに西に進み、1575年5月に15,000の軍で、500人が守っていた長篠城を包囲したんだ。

 

つまり長篠・設楽原の戦いは「武田と徳川の領地争い」によって起こったんだよ。
この武田と徳川の領地争いに関しては長篠・設楽原の戦いより前、家康と武田信玄が起こした三方ケ原の戦いにまでさかのぼるんだ。

 

その当時、織田家は急速に力を伸ばしていて、有力大名の浅井・朝倉家は滅亡。
反信長であった足利義昭も1573年には京都を追放されていたから、室町幕府は事実上滅亡していたの。
これ以上の織田に力をつけさせておくのは危ういという焦りが、武田軍にはあったとされているよ。

逆に徳川家康としては、これから遠江を奪還する上で、織田援軍がある間に武田軍を叩いておきたいという思いが強かったの。
また信長からしても、家康の同盟者として徳川に義理を果たしておきたいという思いがあったと言われているよ。

 

鳥居強右衛門が味方に援軍が来ることを伝える場面の錦絵(楊洲周延作) PD from wikipedia

 

 

【長篠・設楽原の戦いの経過】

 

武田勝頼率いる武田軍は長篠城へと進軍し、城の周りを取り囲むと何度も攻撃をしかけたよ。
長篠城城主・奥平信昌は500人という少ない兵で、何とか武田軍の侵攻を耐え抜き、家康の助けを待ったんだ。

奥平信昌から救援要請を受けた家康は同盟を結んでいた織田信長にも出兵を依頼。
織田・徳川連合軍として長篠・設楽原の戦いへ臨むことになるよ。

 

織田・徳川連合軍は、長篠の設楽原で武田軍を迎え撃つ準備を始めたんだ。
設楽原には、北に雁峰山がそびえて、南側に豊川が流れるという地形だったの。

この地形を活かして、信長はサイドからの敵の侵入を防ぐ対策として柵、空堀、土壁、斜面を削って人工の段崖を作ったんだよ。
この状態で正面から武田軍を誘い込めば、連合軍にとっては非常に有利に戦えると考えたんだ。

 

さらに信長は抜け目がなく、決戦の前日には本隊軍とは別に4,000の兵からなる機動部隊を長篠城へひそかに送っていたよ。
設楽原での戦いとほぼ同時に、機動部隊は長篠城を包囲している武田軍を攻撃して、長篠城を奪還しようという作戦だったんだ。

勝頼は信長や家康の作戦にひっかかり、武田家を支えた家臣や数千の兵を一度に失ってしまうことに…。
信長、家康たちは長篠城の奪還にも成功し、大勝利をおさめることになるよ。

 

では、なぜ長篠・設楽原の戦いに織田・徳川軍が勝利できたのかその要因や、長篠・設楽原の戦いの豆知識について後半ではまとめてみよう。

 

将軍レモン
将軍レモン
500人に対して、武田軍の容赦ない攻めです
足軽レモン
足軽レモン
援軍が来るまで良く耐えましたね!

 

長篠合戦図屏風。日本、三河県(1575年6月28日)。 PD from wikipedia

 

 

前半では、長篠・設楽原の戦いが起こった原因や戦いの経過についてまとめてみたね。
後半ではなぜ織田・徳川連合軍は戦国最強の騎馬戦隊として知られいてる武田軍を撃破できたのかその要因についてまとめてみよう。

 

【織田・徳川連合軍の勝因と武田軍の敗因とは?】

 

長篠・設楽原の戦いで織田信長・徳川家康連合軍は38,000人、武田勝頼軍は15,000人の兵が激突したよ。

武田軍は織田・徳川連合軍と設楽原で決戦するために15,000の兵のうち、12,000人を設楽原へ進軍。

結局、武田軍は15000の兵のうち10000人以上の犠牲者を出し、武田四天王のうち3人、武田二十四将の多くを打ち取られるという大損害を被ることに。

一方、織田・徳川軍は武将の戦死者はゼロだったと言われているよ。
ではなぜこれほどまでに大敗してしまったんだろう?
ここでは織田・徳川連合軍の勝因と武田軍の敗因についてまとめてみよう。

足軽レモン
足軽レモン
これだけの大きな戦で、織田・徳川軍は武将の戦死者ゼロは本当かなぁと思っちゃうね!
足軽レモン
足軽レモン
まぁ、足軽など下っ端の兵はたくさん戦死したのかもしれませんが。。。

 

<準備万端で挑んだ織田・徳川連合軍>

 

織田・徳川連合軍は長篠・設楽原での決戦を前に、武田軍を迎え撃つための事前準備が万端だったんだ。
設楽原で戦うにあたって、横からの敵の侵入を防ぐために柵や空堀、土の壁、斜面を削った断壁などを作り正面からのみ武田軍と戦えるようにしたの。

この柵は馬防柵という木でできたもろい柵のようで、実は堀を掘って馬が転落して突破しにくい防衛線を築いたんだよ。
この策は戦国最強と呼ばれた武田騎馬隊に対抗する信長の作戦だったんだ。

さらに信長は鉄砲を使う戦い方を決めていたの。
信長はそれほど動かなくても遠くの敵を討ちとれる鉄砲の特性を知り尽くしていたため、機動力を武器とする武田騎馬隊に対して「じっと待つ」ことを特化した陣形と装備で対抗したんだ。

<武田軍中央部が予想外に崩壊してしまった>

武田軍は織田・徳川連合軍に比べて数で劣っていたよね。

そこで「翼包囲」と呼ばれる戦術で戦ったんだ。

この翼包囲とは、両端の軍を中央よりもやや先に配置して、敵軍が中央の軍を迎え撃っている間に、両端の軍隊のどちらかが(あるいは両方が)敵軍の背後に回りこんで挟み撃ちにするという戦術なの。
この翼包囲によって、数で劣る軍が敵軍を破ったケースは非常に多く、今日においても陸軍の戦術として使われているポピュラーなものだよ。

 

武田軍は織田軍が中央軍を迎え撃っている間に、両端の軍を背後に回り込んで挟み撃ちする作戦だったんだけどなんど両端の軍が敵軍を突破する前に中央部が予想外に崩壊してしまったんだ。
武田軍中央部では、勝頼の叔父・武田信康、従兄弟の穴山伸君など親戚筋で構成されていたの。
しかし、これらの中央部隊は勝頼ともともと仲が悪く、指揮官である勝頼の指示を無視して敵前逃亡を行い、両端の軍が取り残されることに…。
その結果、たくさんの武田軍が死んでしまったんだ。

 

武田軍では翼包囲の戦術から、特に両端の軍に名将たちが重点的に配置されていたの。
そのため、両端軍の大きな損害によって、彼らの多くが戦死してしまい、武田軍は衰退の一途をたどることになってしまうんだよ。

 

将軍レモン
将軍レモン
戦術が裏目に出てしまいました。

<家康の重心・酒井忠次の活躍>

長篠城攻略の要となるのが鳶が須山(とびがすやま)の砦だったんだ。
この鳶が須山の砦は設楽原の長篠城を挟んだ向かい側にあって、長篠城の包囲や監視に最重要の砦だったの。

徳川家康の重心で、徳川四天王の1人であった酒井忠次は信長の命令によって、500の鉄砲隊を加えた4,000あまりの兵を率いて鳶が須山の奇襲攻撃を開始。
この奇襲攻撃はかなり念入りに行われ、正面の武田軍を迂回して、南側から屋根伝いに進んだ酒井軍は、夜明けに鳶が須山の砦を背後から襲撃するの。
鉄砲射撃もあり、武田軍は大混乱して滑落。

その結果、武田軍は設楽原の34,000の織田・徳川軍と、高所で戦いの状況が見えやすい4,000の酒井軍に挟まれる形になってしまうんだ。

 

逃げ道を失われた武田軍は敵陣に突破するしかなく、5月21日設楽原で最後の決戦が行われたよ。
騎馬隊を最大限に使って攻め入る武田軍だったけれど、馬を防ぐための三重の堀や1,000丁もの鉄砲による一斉射撃で大敗。
8時間の激闘の末、昼過ぎには戦いは終結したと言われているんだ。

 

足軽レモン
足軽レモン
8時間の戦いは長いっすね〜疲れた。

 

<勝頼のいくつもの誤算があった>

長篠・設楽原の戦いでは武田勝頼のいくつもの誤算があったと言われているよ。

勝頼の誤算としては

・長篠城が予想以上に堅固でなかなか落とせず、信長の本軍が到着する前に落城させることができなかったこと

・信長が銃撃戦に特化したじっと待つ戦術を取っていたことを知らず、織田・徳川軍が手をこまねいていると勘違いして、武田軍のほとんどを設楽原に向けて長篠城の軍が手薄になってしまったこと

・酒井忠次を中心とした奇抜攻撃を受けて、長篠城攻略のかなめであった鳶が須山を奪われてしまったこと

などがあるよ。

 

 

現地に再現された馬防柵
CC from wikipedia

 

【織田軍がおこなった馬防柵とは?】

 

織田軍は武田軍の騎馬部隊を攻略するために、三重もの馬防柵(ばぼうさく)を設けたと言われているんだ。

この馬防柵とは、井の字型に木を組んで柵を作って、そのすぐ前に水を入れない空堀を設けた防衛線のことだよ。

敵軍からしてみると、この馬防柵は木の柵にしか見えず、もろい防衛線に見せかけることができるんだ。
しかし、実際には空堀があるため、騎馬隊が何も知らずに馬防柵を超えると堀に突っ込んでしまうため馬が転落してけがをしてしまうの。

馬は600キロほどの重さがあり、その体重を支える4本脚は極めてもろいと言われているんだ。
そのため、転落して脚を怪我してしまうと、使い物にならなくなってしまうよ。

長篠・設楽原の戦いではこの馬防柵が3重にも作られていたから非常に厄介だよね。
さらにそれに加えて、鉄砲隊もいたから武田の最強騎馬隊が信長の防衛陣を突破することは不可能だったんだ。

忍レモン
忍レモン
3重の馬防柵が武田軍の戦国最強と謳われた騎馬武者の活躍を抑え込んだんですね!
足軽レモン
足軽レモン
さらに鉄砲隊も撃ってくるし、悲惨ですわ。

レモン姫
レモン姫
馬さんがかわいそうですわ