大包平 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
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2021年1月10日
本能寺の変といえば、明智光秀が主君である織田信長を討った出来事として有名だよね。
この本能寺の変で明智光秀は自ら本能寺にいたと言われているんだけど最近これまでの説とは別の学説が出てきたんだ。
光秀は本能寺の現場には行かず、部下に実行させていたという説なの。
ここでは明智光秀は本能寺に行かなかったという新しい説についてまとめてみよう。
目次
【明智光秀は本能寺に行ったの?行かなかったの?】
「麒麟がくる」など明智光秀が登場する映画やドラマは数多く描かれているよね。
その中では、明智光秀本人が本能寺を襲ったように描かれてきたんだ。
しかしそれを裏付ける史料というものはなくて、研究者や学者の間では議論されていたテーマだったの。
今回明智光秀は本能寺の変には実は言っていなかったという学説が出たのは1つの古文書の存在がきっかけなの。
この古文書は本能寺の変から87年後にまとめられたもので、そこには明智光秀本人は本能寺の現場には行かずに、部下に実行させていたと記されていたんだ。
【本能寺の変に関する新しい学説が書かれた古文書の存在】
この古文書は、江戸時代前期に加賀藩の兵学者である関屋政春が書いた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」というものなんだ。
この古文書に関しては一部では知られていたものの、主に加賀藩に関わる部分だけが注目されてきたの。
しかし、今回富山市郷土博物館の荻原大輔主査学芸員が読み解いて、明智光秀の本能寺の変について書かれていることが明らかになってきたんだよ。
荻原大輔主査学芸員によると、本能寺の変の記述は、古文書の中でも1669年に成立した上巻に記されているんだ。
本能寺を襲撃した明智光秀軍を率いていた重臣・斎藤利三(さいとうとしみつ)の三男で、自らも数え16歳にして本能寺の変の事件に関わった斎藤利宗(さいとうとしむね)が、加賀藩士・井上清左衛門に語った内容として収録されているの。
この古文書によると、利三と光秀の重臣であった明智秀満が率いた先発隊2,000あまりの部隊が本能寺を襲撃。
その頃、明智光秀は本能寺から約8㎞南の鳥羽(現在の京都市南部)に控えていたと書かれているよ。
ちなみに加賀藩主・前田家に仕えた兵学者・関屋政春が記した自筆本「乙夜之書物」は金沢に現存していて、全3巻のうち本能寺の変にエピソードについて記されているのは上巻だけなんだ。
この乙夜之書物は代々関屋家に伝わってきたとされており、前田家に所蔵が移ったものの、戦後1948年に前田育徳会尊経閣文庫から金沢市に寄贈されたよ。
【他人に見せることは厳禁と書かれている古文書は信憑性が高い?!】
この古文書の奥書(書き入れのこと)に関屋が息子のために書き残し、他人に見せることは厳禁であると書かれているんだ。
この奥書からも、関屋の自筆本で後世の加筆もないとみられており、事件に参加して重要情報に触れ得る立場の人物が情報源となっていることから、信憑性は高いのでは?と考えられているよ。
これまで明智光秀が本能寺の変を自ら襲ったと考えられてきたのは、光秀が交流していた公家・吉田兼見の日記(1570年~92年に作成)に「惟任日向守、信長之屋敷本応寺へ取懸」という記載があったからなんだ。
惟任日向守とは明智光秀のことを示しているよ。
しかし、これに関しては鵜沢を書き残した可能性も指摘されているため、本当に明智光秀自身が本当に本能寺を襲撃したかははっきりとは分かっていないんだ。
もしも光秀が本能寺の変に行かなかったという説でも、何もおかしいことはなく、十分にあり得るのでは?と言われているよ。
確かに明智光秀自身がわざわざ危険を伴う最前線に赴く必要はないし、重臣に向かわせたといってもおかしいことはないね。