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2020年11月30日一生を戦いに捧げた大和国の戦国大名・筒井順慶とはどんな人物だった?
2020年12月7日
「麒麟がくる」第34回では大和の松永久秀と筒井順慶の内戦について描かれているよね。
実はこの内戦は、大和国をめぐって18年も攻防が続いたんだ。
ここでは松永久秀と筒井順慶の因果関係、ライバル関係の真相をまとめてみよう。
目次
【なぜ松永久秀と筒井順慶はライバル関係になったの?】
戦国時代の大和国は現在の奈良県であり、「大名不在の国」と言われていたんだ。
すでに大和国は鎌倉、室町時代から大寺社である興福寺の力が非常に強くて、幕府は守護所を置かなかったんだ。
その代わりに、その役割を全て興福寺が果たしていたと言われているよ。
しかし戦国時代後半になると、大和国の中でも国人領主である「国衆」たちが力を持ち始めるんだ。
すると領内の統治権を独占する戦国大名に成長しようとする動きが見られるようになったの。
この大和の支配をめぐって、抗争を繰り広げたのが「松永久秀」と「筒井順慶」なんだ。
松永久秀は室町幕府の管領を勤めた細川家の重臣であった三好長慶に仕えていた土豪だったの。
一方、筒井順慶は、代々興福寺の塔頭一乗院の家柄で、大和盆地の北部を支配する国衆でもあったんだ。
筒井順慶の父は28歳の若さで病に倒れたため、残された嫡男の順慶はまだ1歳だったので伯父の順政が後見役となったの。
順慶が10歳となった永禄2年(1559年)に松永久秀は大和に侵攻し、筒井氏の本拠となる筒井城を攻め落とすんだ。
翌年には、松永氏は大和一国を手中におさめて、信貴山城と多聞山城を拠点として、大和の支配を確かなものにしたんだよ。
つまりこの頃から、筒井順慶と松永久秀はライバル関係であったんだ。
松永久秀を倒して、本拠である筒井城と大和国を奪還することは少年期から青年期にかけての若い順慶にとって悲願になっていったんだ。
【年の離れたライバル関係】
実は松永久秀と筒井順慶は41歳も年が離れているんだ。
41歳年上の久秀にとって順慶は小童にすぎないけれど、順慶は大和の名門の御曹司だったこともあり、余所者で成り上がってきた久秀にとって一歩たりとも譲ることはできなかったんだ。
祖父と孫ほどの年の差があった2人だけど、久秀が織田信長に討伐される天正5年(1577年)まで足かけ18年にわたって、激しい衝突を繰り返すライバル関係だったんだよ。
【順慶VS久秀の戦い】
青年武将であった筒井順慶は、松永久秀と対立する三好三人衆と手を組むなど手腕を見せつつ、果敢に戦いを挑み続けるんだ。
そして永禄9年には筒井城を久秀から奪還。
戦いを有利に進めていくよ。
その頃、織田信長と足利義昭の上洛が起こったよ。
久秀は上洛を伺う信長に接近し、同盟関係を結ぶことに。
信長にとっては、畿内の情勢に通じている久秀を味方につけることは、上洛をスムーズにすることができるという狙いがあったんだ。
永禄11年に信長は上洛を果たし、信長と義昭を後ろ盾とした久秀は完全に力を盛り返すことになるよ。
そこで大和奪還を再びもくろむようになり、信長と義昭も久秀に大和一国の支配を任せると通達したんだ。
この状況によって圧倒的に不利になった筒井順慶は、せっかく取り戻した拠点・筒井城から退去を余儀なくされてしまうんだ。
そして翌元亀元年(1570年)7月には、久秀は大和国内の領土配分を実施。
大和の支配を確かなものにしていくよ。
さらに元亀元年12月には順慶とともに久秀に対抗していた三好三人衆が、久秀と和睦したことで順慶と三好三人衆の同盟関係は崩壊。
順慶はもはやここまでか…と思いきや、翌元亀2年(1571年)5月に久秀は片野城を攻撃。
これに呼応して三好三人衆も畠山秋高の居城・高屋城に攻めかかったんだ。
畠山など幕臣を攻撃された足利義昭は松永久秀に不信感を抱くようになり、久秀のライバルであった筒井順慶と義昭が接近するようになるよ。
このことによって、中坊など大和国の有力な国衆が筒井順慶になびき、松永方から離反をし始めてしまうんだ。
順慶は松永方の城に対して攻勢をかけ、辰市(現在の奈良市)に要害を築くの。
この辰市合戦によって、筒井方の反転攻勢をうけて、松永方は大敗してしまうんだ。
辰市合戦に勝利した筒井順慶は、本拠・筒井城を再奪還することに成功。
この時、順慶はまだ22歳の若さだったんだ。
【筒井順慶と松永久秀のその後の関係とは?】
筒井順慶は筒井城を奪還した後、明智光秀の斡旋を受けて信長に臣従することになるんだ。
また、松永久秀も佐久間信盛を通じて信長に臣従したため、長年のライバルであった筒井順慶と松永久秀は、光秀と信盛の仲介で和睦されたと言われているよ。
大和国の支配をめぐって、めまぐるしく攻守入れ替わる2人の戦いの様子は本当にすさまじいね。
元亀3年には久秀と信長の関係は破綻してしまい、織田方の筒井順慶VS松永方という戦いの構図が出来上がったんだ。
さらに翌年には、信長と将軍・足利義昭の関係が悪化したため、松永久秀は将軍・義昭に接近。
大和国は、信長・順慶VS義昭・久秀という対抗図式になっていくよ。