信長包囲網には将軍・足利義昭が関係していた?信長包囲網には第一次~第三次まであるって本当?! その1
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2020年11月24日
前回は信長包囲網が構築された背景について詳しくまとめてみたよね。
信長包囲網は第15代将軍である足利義昭と信長の関係性の悪化によって起こったってことがよく分かったよ。
今回は、第一次から第三次まであるそれぞれの信長包囲網についてもう少し詳しくまとめてみよう。
目次
【第一次信長包囲網とは?】
浅井・朝倉軍をはじめ、三好三人衆や本願寺の一向一揆を敵に回した信長軍は、京都から近江、美濃、尾張へ続く道でいずれも敵に囲まれてしまうんだ。
その状況を「第一次信長包囲網」と呼んでいるよ。
第一次信長包囲網に参加していたのは、
・浅井長政
・朝倉義景
・三好三人衆
・斎藤龍興
・荒木村重
・比叡山延暦寺
・本願寺
などだよ。
浅井・朝倉軍に続いて、挙兵したのが石山本願寺で、彼らとの戦いは「野田城・福島城の戦い」として知られているよ。
石山本願寺との戦いに駆り出された織田軍は摂津石山へ向かうことになるんだ。
すると、信長の動きを見計らって待ってましたと動き始めたのが浅井・朝倉連合軍だったの。
彼らは織田軍の背後を狙おうとして、琵琶湖の西側を南進するものの、そこで立ちはだかっていた織田家の重臣・森可成と対決。
約3万の浅井・朝倉連合軍は、わずか1000ほどの兵を率いた森可成に負けてしまうんだ。
その後もピンチが続いた信長軍だったけれど、将軍・足利義昭に働きかけて和睦を提案。
織田家にとっては相当ピンチだったけれど、朝倉義景はこの和睦の提案を受託するの。
【第二次信長包囲網とは?】
第二次信長包囲網が構築されたきっかけは1572年に甲斐の武田信玄が上洛したことからなんだ。
当時の武田信玄は「戦国最強」と呼ばれており、武田信玄が上洛すれば、織田信長を倒すことができると考えた反信長勢力がこれに呼応して次々と挙兵したの。
1572年12月には、信玄が信長の盟友である徳川家康を「三方ヶ原の戦い」で一蹴。
さらに第二次信長包囲網では、第一次にも参加していた朝倉義景、浅井長政、比叡山延暦寺、石山本願寺、三好三人衆、荒木村重らに加えて、武田信玄、北条氏政、内藤如安、甲賀衆、伊賀衆、そして将軍である足利義昭も参加していたから、信長の周りは敵だらけで、窮地に立たされていたんだよ。
1573年には、信長が建ててくれた二条城で挙兵した義昭は、天皇の勅命で講和を一度は結ぶものの、再度挙兵。
けれど一向に頼みの綱であった武田信玄は上洛してこないんだ。
実は武田信玄はこの時、病死してしまい、武田軍は甲斐に戻ってしまっていたの。
この事実を義昭は知らなかったと言われているよ。
武田軍が甲斐に戻ってしまったことで、第二次信長包囲網は事実上解散してしまい、義昭は追放され、朝倉義景、浅井長政、三好義継らは自害したんだ。
また、松永久秀は降伏して、石山本願寺と信長は和睦を結び、信長に反発していた反勢力はそれぞれ力を無くしていったんだよ。
【第三次信長包囲網とは?】
第三次信長包囲網は、1570年~1580年まで続いた石山合戦が激化したことで構築されたの。
第二次信長包囲網が瓦解した後、1度は和睦を結んだ信長と石山本願寺だったけれど、本願寺は再び挙兵し、伊勢長島、越前、加賀の一向一揆などと連動しながら信長軍と戦うことになるよ。
さらに1575年の長篠の戦いでは、織田・徳川連合軍の前に、武田信玄の息子・武田勝頼が大敗し、翌1576年には明智光秀を中心とする軍が石山本願寺を包囲するんだ。
また、柴田勝家らが加賀の一向一揆の鎮圧を進めていくよ。
第二次信長包囲網の後、京を追放された将軍・足利義昭は、中国地方の大名であった毛利輝元を頼り、備後の鞆を拠点に活動。
この状況を見て、義昭は石山本願寺を救援し、信長を討ち倒すために各地の勢力に御内書を送って「第三次信長包囲網」を構築したんだ。
第三次信長包囲網に参加していたのは
・足利義昭
・宇喜多直家
・上杉謙信
・毛利輝元
・山名祐豊
・武田勝頼
・松永久秀
・赤井直正
・荒木村重
・石山本願寺
などがいたよ。
その中でも要となっていたのは、上杉謙信なんだ。
上杉謙信は、信長と同盟を結んで石山本願寺の影響下にあった加賀や越中の一向一揆と戦っていたの。
すると、義昭や上杉謙信と石山本願寺の調停に乗り出し、謙信はそれに応じて和睦を結ぶことに。
上杉謙信は信長との同盟を破棄してしまうんだ…。
第三次信長包囲網の計画も、毛利輝元が石山本願寺を救援し、物資の補給などで時間を稼ぐ間に、上杉謙信が上洛し、東西から信長を挟み撃ちにするという計画だったんだよ。
1576年には毛利輝元が支持する村上水軍が織田水軍を撃破。
石山本願寺への物資補給に成功し、上杉謙信も呼応して、織田方の七尾城を包囲したの。
しかしこの七尾城は堅城で、攻略することはできなかったんだ。
その翌年、謙信はもう一度、七尾城を信攻し、攻略。
柴田勝家らを手取川の戦いで、撃破したんだよ。
しかし、1578年には上杉謙信が突如病死してしまい、謙信の養子・上杉景勝と上杉景虎による家督争いが起こり、上洛どころではなくなってしまったの。
さらに1578年12月には、村上水軍と織田水軍で再び戦いが始まり、1579年には宇喜多直家が織田方へ寝返ってしまうんだ。
1580年には石山本願寺が降伏し、1582年には武田氏が滅亡。
第三次信長包囲網のメンバーたちはことごとく信長軍に撃破されてしまって、消滅してしまうんだ…。
三度にもわたる信長包囲網に打ち勝った織田信長はこうして天下統一に向けてさらに力を大きくしていったんだよ。